浦幌

2018年4月25日 (水)

新吉野の駅名の由来は本当な何か?

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浦幌町の根室本線新吉野駅。かつては「下頃部」と言ったが、1942(昭和17)年に「新吉野」と改称した。
 
この「新吉野」という駅名。アイヌ語のシタコロベの語義が悪いということで変更になったと聞いたが、ではなぜ「新吉野」なのか?については、国鉄の駅名起源解説に「駅前に吉野桜が1本あったので吉野としようとしたところ、既に本州に吉野駅が存在したため『新』を冠して駅名とした」と書かれているのが出典としてよく引用される。
 
しかし、実は地元ではこの国鉄の由来説明に納得している人はほとんどおらず、そもそも駅前に吉野桜などというものがあった記憶が人々には無い。では、なぜ「吉野」なのか?はずっと不明のままだった。
 
 
ところが、昨日、吉野公民館で地区の古老と茶飲み話をしている席上、いきなり古老の一人が
 
「そもそも吉野なんて漢字が昔からついていたか?あのころは一面ヨシっ原だったから、みんなこの辺のことはヨシワラって呼んでいたのを覚えていねえか?」と言い出した。
 
すると驚いたことに、同席の古老たちから「そうだそうだ」「ヨシワラって言ってたっけなあ」という声が次々と上がる。そして、小学校の文集の名前が「ヨシハラの子」というタイトルになったと言う話も。
 
また、当初は「萩野」にしようという案が持ち上がったが、これが変更になって「吉野」になったという話も出た。いずれにしろ、昨日の話の流れから推察されたのは以下のとおり。
 
「下頃部」からの改称が検討される → 「萩野」案が出る → 同名があるので否定 → ヨシワラ案が出る → 漢字にすると「葦原」だが、時節柄、尊過ぎる名前だし、ヨミをとって「吉原」にすると、戦時中という時節柄、遊郭名に通じるのでいかがなものか → 「葦野」は画数が多すぎ → 「吉野」が良い → 同名駅があるから新を冠して「新吉野」にしよう
 
まったく根拠文献も無く、単なる雑談から出た推察だが、可能性はあるのではないか?今後さらに調べてみたい。
 
 

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2018年4月16日 (月)

明治41年の通常為替証書を買ってみた

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インターネットのオークションで、明治41年の通常為替の証書が出ていた。浦幌の地名が入っており、価格も500円と手頃だったので購入してみた。
 
正式名称は「通常為替金受領証書」。 現在も郵便局で取り扱っている普通為替で、当時は逓信省であった。
 
まず証書そのものの印刷について見てみる。下部に小さくある記載によれば、「明治四十年四月印刷局製」と記されている。
 
「印刷局」とは現在の国立印刷局である。かつては大蔵省印刷局といった。私は未だにその名称に馴染みがあるのだが、それもそのはず、大蔵省印刷局の歴史は古くて、明治11年まで遡る。
 
ただ、 明治40年の印刷局はちょっと面白い時期で、それまでの大蔵省印刷局と内閣官報局が合併し、「印刷局」は「○○省印刷局」ではなく、内閣所管の単なる「印刷局」であった。工場は東京の大手町にあったとされる事から、この証書も大手町で刷ったものなのだろう。この体制が関東大震災後まで続いた。
 
 
次に、為替でお金を払い込んだ年月日と場所である。消印には「明治四十一年八月三日 十勝浦幌」とあり、本文にも「十勝國浦幌郵便局長」の印が押されている。現在の浦幌郵便局であろう。
 
明治41年の浦幌はまだ「十勝國生剛村」だった時代で、根室本線が現在の富良野線経由で旭川〜釧路間を全通した直後。当時の浦幌郵便局の場所がよくわからないが、まだ生剛村役場のあった下浦幌地区にあったかもしれないし、鉄道に併せて浦幌駅前通りに移転した直後だったかもしれない。このあたりはしっかりと史料を確認する必要がある。
 
 
一方、送金したお金を受け取る郵便局が指定されている。いわゆる「払い出し郵便局」で、証書には「下総國境局」とある。現在の「茨城境郵便局」がそれに該当する。
 
茨城境郵便局の歴史は古く、なんと明治5年、日本の郵便制度発足直後に「境郵便取扱所」として開設されている。明治36年に「境郵便電信局」から「境郵便局」と名称が変更されており、本資料はその時代のものである。場所は茨城県猿島郡境町で、境町は当時もいまも猿島郡境町で変わらない。
 
 
この境町が属する猿島郡は、茨城県の西端にあたる。東北本線の古河の辺りで、関東平野の中心地である。ここまで来ると茨城県なのかどこなのか、よくわからないのが正直なところなのだが、だからこその「境」なのであった。
 
 
この境町の東には、筑波地区がある。現在は合併して「つくば市」になっているが、かつては細かく分かれていて、明治41年当時は筑波郡上郷村(その後の上郷町→豊里町)があった。
 
この筑波郡上郷村は、浦幌町の下浦幌地区に入植して大農場を築いた土田謙吉の出身地、いわゆる入植元である。土田は明治28年に茨城県から15戸60名を浦幌へ移住させたと言われている。明治年間に浦幌と上郷村との間を往復した書簡が残っており、移住後も出身県の人々とのやりとりが続いた事であろう。
 
そう考えると、この証書で浦幌から境へお金を送った人物も、土田農場に関係した人なのかもしれない。名前も無いし、これらの状況から推察しただけの全く確証の無い話ではあるが、小さな紙片もそうした事を考えながら眺めていると、それだけで何か愛おしさのようなものを感じてくるから不思議なものである。
 
 

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2017年10月19日 (木)

チュクベツ渡船場の文化財標識の位置と当時の場所

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浦幌直別と釧路直別を隔てる直別川は、むかしから釧路と十勝の国境であった。
そのため、特に寛政11年(1800年)に海岸沿いの道路が開通すると、往来する交通量の増加から渡船場が設けられた。
 
その事について触れた文化財標識を浦幌町で建てているのだが、看板がすっかり古くなっている事と、これミスだと思うんだけど文章が少し変なので、修理するにあたり書き直す事にした。
 
 
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国土地理院と陸地測量部の地形図で見る、いまと昔の直別川。流れが大きく変わっていることがわかる。
陸地測量部の地形図は大正9年(1920年)測図のもので、地形図としてはこれが一番古い。既に鉄道も通じているので、江戸時代とはまた違うと思うが、河口部の雰囲気はよく残っている。
 
 
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現在、文化財標識が建っているのは「現在地」の場所。当時の渡船は、これは推定なのだが、大正9年の地図で橋がかかっている場所あたりと思われる。これは前後の海岸道路の位置から推定した。というのも、この海岸道路、なんと釧路直別側に一部だけ、その痕跡が残っているのである。
 
 
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これがその跡。中央部を左右に走る盛り上がりがあるが、これがそうだとされている。きちんと発掘調査とかをしてもらった方が良いと思うし、その上で釧路市の史蹟に指定してはと思う。
 
 
チュクベツ渡船については、文化財標識を見た方から「こんな小さな川に渡船を設けたの?」と聞かれる事がある。だが、実際はここではなく、もっと下流なのだ、という事を看板できちんと示したかったので、今回、上記の地図を載せることにした。
 
また、渡船前後の海岸道路と、その現存部分があるのだという事も、この機会に載せることにした。これについては厳密には釧路市音別町側の史蹟になるが、まあ、渡船自体が国境にあるのだから良しとしてもらおう。
 
 

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2017年7月 3日 (月)

アイヌ舞踊とコタンを考える集い

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 浦幌のアイヌ遺骨返還へ向けて、永年、運動へ取り組んできた浦幌アイヌ協会の差間正樹さんと市川守弘弁護士が帯広市で講演される。残念ながらこの日は仕事が入っていて私自身は参加できないが、ぜひ多くの方々にご来場いただきたいと思う。
 
 

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2017年6月16日 (金)

フラワーソンの下見

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 浦幌は林業の町で、今日もあちこちで木を切る音が聞こえる。明日から始まるフラワーソンの下見で、稲穂林道の様子を見に行ったところ、ここでも人工林を伐採する作業が進行していた。
 
 
 人工林の林床は、たしかに種類は少ないものの、意外にあなどれなくて、スポット的に面白い場所がある。ここはカラマツ林の林床に直線状に出来た開けた空間だが、この直線の光に誘われて、びっしりとスミレが育っている。もう花は終わり、みんな果実になっていた。
 
 
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 林縁では真っ白いエゾノタチツボスミレや、エダウチチゴユリ、ナンテンハギなども見られる。森林と草原が入り交じったような人工林も、植物観察のポイントとして捨てがたい。
 
 

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2017年1月28日 (土)

しゃっこいフェス2017

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 浦幌では、さまざまな立場の若者が中心となって実行委員会をつくり、今夜と明日、「しゃっこフェス2017」というイベントが行われている。帯広の氷まつりのような大きなイベントではないが、手作り感のある冬のお祭りという感じで面白い。
 
 
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 露店、といっても地域の方々の手によるカレーライスやスープなどのテントが並ぶ会場。浦幌のお祭りは、もう永いこと露天商が入っていないそうだ。
 
 
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 雪を固めた滑り台。前日の気温上昇と降雨により、表面がならされてテカテカに。より滑りやすさ抜群になっている。
 
 
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 見ていて面白かったのが人間ばんば。ばんえい競馬のような丘障害を雪山でつくり、ソリに乗った子供を引っ張って超える競争。なかなか荒っぽいが盛り上がる。
 
 
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 立ってじっとしていると寒くなってくる。しばれる中でのイベントは、準備する方は大変だろうと思う。
 
 
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 明日は日中、雪合戦や図書館員による絵本の読み聞かせ(かまくらの中でやるらしい)、たからさがしなどが行われる予定。天候が荒れないと良いのだが、大丈夫だろう。明日も盛り上がることを祈っています。
 
 
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で、「しゃっこいフェス2017」へ顔を出していたら予定していた汽車に乗り遅れてしまったので、自動車で尺別へ行く。釧路方面は暴風雪警報が発令されていて、20時を過ぎると風がとても強くなってきた。
 
尺別と直別の間、地理的には直別に入るキナシベツ湿原入口の木無別踏切。通過する列車は上り最終の2532D。本当はこれに乗るつもりだったのだが、今日は残念。
しかし、凍てつく夜の踏切はなぜか美しい。
 
 

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2016年8月11日 (木)

鳥居を比べてみた

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 前から一度やってみたかったのが、地域の神社にある「鳥居のかたち」の分類。学芸員は、なにかにつけてモノを分類したがる傾向にあるが、もともと鳥居には分類体系があり、その種類は細かく分類すれば60種類にも及ぶと言う。そこまでいかなくても、代表的な14分類群があり、突き詰めると上位分類で2種に大別されるらしい。
 
 当館では初代学芸員の後藤さんが、かつて「近世社寺調査」の一環で町内の神社をひととおり調べた記録がある。鳥居についても簡単に言及されていたが、今回、「浦幌神社の120年」展を開催するにあたって再度町内の全神社を巡り、記録写真などを撮っている。そこで鳥居の形にあらためて着目してみた。
 
 写真は活平神社の鳥居。浦幌でもっとも多いタイプの簡素なもの。2本の柱の天に「笠木」を渡し、その下で「貫」が柱を結んでいる。全てが丸太状で、「貫」は2本の柱の両側に突き出さない。
 「白木鳥居」もしくは「御霊鳥居」と呼ばれるタイプと思われる。
 
   
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 こちらは常室神社の鳥居。活平神社に似ているが、笠木と貫の間に神社名を書いた「神額」がかかっている。ただし、この神額は笠木に打ち付けてあるだけで、この裏に笠木と貫を補強する「額束」は無い点に注意する必要がある。
 「額束」の有無は、鳥居の分類上けっこう重要らしく、もし「額束」があれば「宗忠鳥居」(むねただとりい)に同定されるらしいが、無いので活平神社と同じ「白木鳥居(御霊鳥居)」。
 
 
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 川流布神社の鳥居。「貫」が柱の外に突き出しているのがわかる。また、「笠木」が丸太なのに対して「貫」は平板である。「額束」は無く「神額」が打ち付けられているのみ。
 「鹿島鳥居」に同定された。
 
 
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  川上神社の鳥居。川流布神社の形に近いが、笠木の小口が斜めにカットされているのがわかる。 
 分類的には「鹿島鳥居」の種内分類群らしい。ただし、本来、「鹿島鳥居」は「笠木」は丸太だが「貫」は平板らしいのだが、川上神社の鳥居は「貫」も丸太である。
 という訳で、「鹿島鳥居sp.?」くらいしにか同定できない。どなたか、「アノテーションラベル」(植物標本を再同定した時に貼るラベル)を貼って欲しい。
 
 
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 これまでの鳥居が、大分類では「神明鳥居」に含まれるのに対し、浦幌で唯一、「笠木」の下に「島木」のある「明神鳥居」に含まれる鳥居を持つ、留真神社。
 
 「島木」の存在の他、「貫」が柱の両側に突き出ており、さらに「貫」と柱の交点には「くさび」も見える。そして「神額」はかかっていないが「額束」がある。
 
 さらに、「笠木」の小口が斜めにカットされているのに対し、その下の「島木」の小口は垂直である。これが検索表の末端部分で、「春日鳥居」に同定される(島木の小口が斜めだったら「八幡鳥居」)。
 
 鳥居の分類方法はいくつか学説があるらしく、「検索表」も何種か呈示されている。それらを比較・参照しながら再同定を楽しむのも面白い。
 
 

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2016年8月 7日 (日)

オニハマダイコンが増えてきた?

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 昨日、8月6日は、月例調査観察会「豊北植物調査会」。月に一度の豊北海岸の植物を調べて歩く日だ。
 
 幸いにも天候はすこぶる良く、しかも適度な風もあって熱射病のような心配をする必要もなく、気持ちの良い散策になった。上空には昆布刈石の発着場を発ったパラグライダーが飛んでいて、下から手を振ると、パイロットが手を振り返すのが見えた。
 
 
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 ここ数年で道内の沿岸植生を席巻する勢いとも言われるオニハマダイコンは、これまで豊北を含む十勝海岸にはほとんど定着していなかった。全く無い訳ではないが、見つけようと思ってもみつからない程度の、偶発的な個体ばかりであった。
 
 ところが、今日の調査では合計6個体も見つかった。これは驚きと共に、警戒心を強くする出来事である。こんな事は初めてだからだ。今日確認された個体は全て抜き取ってきたが、今後の動向を要注意である。
 
 
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 今年はSNS(ツイッター)で「ネジバナリレー2016」が開催されており、全国のネジバナ開花初認日が記録されている。浦幌でも7月29日に確認し、既にデータを提供しているが、今日はちょうど盛りだったらしく、随所で開花を確認できた。
 
 
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 なかには白花の個体もある。
 
 
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 ハマボウフウは花から果実へ移行しつつある。なにやら美しい昆虫が飛来していた。
 
 
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 アカネムグラ。これも花のシーズンは終わりつつある。
 
 
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 ヒメシロネはちょうど咲いた頃のようだ。
 
 
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 オカヒジキの小さな雄花も見えた。右の黄色いのが尾花、左の白っぽいのが雌花。
 
 
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 コケモモの実は赤くなりはじめたところ。ガンコウランは黒熟していて、果実を採りに来ている人の姿も見えた。
 
 
 合計で80種ほどの花の動向を記録。来月も第1土曜日に開催する予定。
 
 

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2016年6月24日 (金)

ようやく晴れて豊北

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 今月は本当に雨ばかりで日が差さず、農業への影響も深刻な状態が続いている。ようやく日の差した24日、昆布刈石と豊北を少し回ってきた。
 
 
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 天候は良いが、波はけっこう高い。明日からまた天候は崩れると言う。
 
 
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 漂着物でつくったのであろう、海岸には不思議なオブジェが組み上がっていた。
 
 
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 ハマニガナの咲く、汀線に近い砂浜に、まさに雨後のキノコがニョキニョキと生えていた。
 
 
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 本当にニョキニョキと。私はキノコは知らないままにしておこうと思っているので、標本にして知人の研究者へ送ろうと思う。
 
 
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 30年前に「町の花」に指定されたハマナス。ぼちぼち咲いてきている。穏やかで美しいはずの6月の海岸だが、今年は天候に恵まれないのが残念。
 
 

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2016年4月 1日 (金)

浦幌学芸1年経過

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 浦幌町立博物館へ来て1年が経過した。昨年のいまごろは、帯広百年記念館での新着資料展の撤収を終わらせてバタバタと浦幌へ移った初日で、まだ自宅も引っ越しておらず、帯広から自動車で急行した。しばらくは帯広住まいであった。
 
 町の暮らしにも慣れ、人々にもいろいろと知り合いも出来て楽しい反面、博物館の仕事で言えば正直なところ帯広百年記念館が懐かしい気持ちがまだ強い。なにせ浦幌は自分しかいないので、とにかく忙しい。それも学芸の仕事で忙しいのとは異なる部分で追われている感じ。また、そもそも学芸員がしばらくいなかったので、学芸員とか博物館というものが組織にいまひとつ浸透しておらず、どう扱って良いのかわからないという感じで扱われている気がする。
 
 空気感で言えば、学芸員の仕事をしているというより、町の役人という感じが強い気がする。事業も博物館の事業か?というようなものが結構あるし、調査研究はこの1年間はまともにする事ができなかった。植物標本にも全くと言って良いほど触れていない(資料扱いについては、技術的な面も含め、これはまずいなあと思い始めている)。
 
 まあ、こうした点が、館が役場や本庁と独立していて、館長や事務職員が専任で配置され、学芸員も複数いるような館と異なるところなのだろうが、まあ、そうした小規模館の問題点を実体験するために飛び込んだのだから、実感を得られて良かったとも言えよう。あとは実感で終わらせず、どう役人から学芸員へと仕事の中身も空気感も変えて行かれるかという事が大事なのだと思う。
 
 帯広含め、たまに中規模・大規模な博物館へ行って学芸員たちと話をしたりすると、いいなあ羨ましいなあと思う面がたくさんある。だが、そうして相談できる学芸員が周囲にたくさん居るという事は大きな力だなあと思う。いいなあ羨ましいなあと感じる面のうち、実際に浦幌で採り入れられるものを選び、状況を少しずつ変えていくしか方法は無いのだろうと思う。
 
 これまで投稿させてもらっていた紀要を、今号から私が編集している。ようやく最新号となる『浦幌町立博物館紀要』の第16号を発刊した。ISSNも取得し、執筆要領なども整備した。体裁を少し変更し、自然史系の短報が投稿しやすい形にした。採集記録とか分布情報とか、幅広く投稿を呼びかけ、多くの方からさまざまな分野の情報を集め、発信していきたい。

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