浦幌

2017年10月19日 (木)

チュクベツ渡船場の文化財標識の位置と当時の場所

Photo

 
浦幌直別と釧路直別を隔てる直別川は、むかしから釧路と十勝の国境であった。
そのため、特に寛政11年(1800年)に海岸沿いの道路が開通すると、往来する交通量の増加から渡船場が設けられた。
 
その事について触れた文化財標識を浦幌町で建てているのだが、看板がすっかり古くなっている事と、これミスだと思うんだけど文章が少し変なので、修理するにあたり書き直す事にした。
 
 
Img_8089
 
Photo_2
 
国土地理院と陸地測量部の地形図で見る、いまと昔の直別川。流れが大きく変わっていることがわかる。
陸地測量部の地形図は大正9年(1920年)測図のもので、地形図としてはこれが一番古い。既に鉄道も通じているので、江戸時代とはまた違うと思うが、河口部の雰囲気はよく残っている。
 
 
Photo_5
 
現在、文化財標識が建っているのは「現在地」の場所。当時の渡船は、これは推定なのだが、大正9年の地図で橋がかかっている場所あたりと思われる。これは前後の海岸道路の位置から推定した。というのも、この海岸道路、なんと釧路直別側に一部だけ、その痕跡が残っているのである。
 
 
Photo_4
 
これがその跡。中央部を左右に走る盛り上がりがあるが、これがそうだとされている。きちんと発掘調査とかをしてもらった方が良いと思うし、その上で釧路市の史蹟に指定してはと思う。
 
 
チュクベツ渡船については、文化財標識を見た方から「こんな小さな川に渡船を設けたの?」と聞かれる事がある。だが、実際はここではなく、もっと下流なのだ、という事を看板できちんと示したかったので、今回、上記の地図を載せることにした。
 
また、渡船前後の海岸道路と、その現存部分があるのだという事も、この機会に載せることにした。これについては厳密には釧路市音別町側の史蹟になるが、まあ、渡船自体が国境にあるのだから良しとしてもらおう。
 
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017年7月 3日 (月)

アイヌ舞踊とコタンを考える集い

Photo_8

 浦幌のアイヌ遺骨返還へ向けて、永年、運動へ取り組んできた浦幌アイヌ協会の差間正樹さんと市川守弘弁護士が帯広市で講演される。残念ながらこの日は仕事が入っていて私自身は参加できないが、ぜひ多くの方々にご来場いただきたいと思う。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月16日 (金)

フラワーソンの下見

Img_9218

 
Img_9202
 浦幌は林業の町で、今日もあちこちで木を切る音が聞こえる。明日から始まるフラワーソンの下見で、稲穂林道の様子を見に行ったところ、ここでも人工林を伐採する作業が進行していた。
 
 
 人工林の林床は、たしかに種類は少ないものの、意外にあなどれなくて、スポット的に面白い場所がある。ここはカラマツ林の林床に直線状に出来た開けた空間だが、この直線の光に誘われて、びっしりとスミレが育っている。もう花は終わり、みんな果実になっていた。
 
 
Img_9224
 林縁では真っ白いエゾノタチツボスミレや、エダウチチゴユリ、ナンテンハギなども見られる。森林と草原が入り交じったような人工林も、植物観察のポイントとして捨てがたい。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月28日 (土)

しゃっこいフェス2017

Photo

 浦幌では、さまざまな立場の若者が中心となって実行委員会をつくり、今夜と明日、「しゃっこフェス2017」というイベントが行われている。帯広の氷まつりのような大きなイベントではないが、手作り感のある冬のお祭りという感じで面白い。
 
 
Photo_2
 露店、といっても地域の方々の手によるカレーライスやスープなどのテントが並ぶ会場。浦幌のお祭りは、もう永いこと露天商が入っていないそうだ。
 
 
Photo_3
2
 雪を固めた滑り台。前日の気温上昇と降雨により、表面がならされてテカテカに。より滑りやすさ抜群になっている。
 
 
2_2
1
 見ていて面白かったのが人間ばんば。ばんえい競馬のような丘障害を雪山でつくり、ソリに乗った子供を引っ張って超える競争。なかなか荒っぽいが盛り上がる。
 
 
Photo_4
 立ってじっとしていると寒くなってくる。しばれる中でのイベントは、準備する方は大変だろうと思う。
 
 
Photo_5
 明日は日中、雪合戦や図書館員による絵本の読み聞かせ(かまくらの中でやるらしい)、たからさがしなどが行われる予定。天候が荒れないと良いのだが、大丈夫だろう。明日も盛り上がることを祈っています。
 
 
2_3
Photo_6
で、「しゃっこいフェス2017」へ顔を出していたら予定していた汽車に乗り遅れてしまったので、自動車で尺別へ行く。釧路方面は暴風雪警報が発令されていて、20時を過ぎると風がとても強くなってきた。
 
尺別と直別の間、地理的には直別に入るキナシベツ湿原入口の木無別踏切。通過する列車は上り最終の2532D。本当はこれに乗るつもりだったのだが、今日は残念。
しかし、凍てつく夜の踏切はなぜか美しい。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年8月11日 (木)

鳥居を比べてみた

Photo

 前から一度やってみたかったのが、地域の神社にある「鳥居のかたち」の分類。学芸員は、なにかにつけてモノを分類したがる傾向にあるが、もともと鳥居には分類体系があり、その種類は細かく分類すれば60種類にも及ぶと言う。そこまでいかなくても、代表的な14分類群があり、突き詰めると上位分類で2種に大別されるらしい。
 
 当館では初代学芸員の後藤さんが、かつて「近世社寺調査」の一環で町内の神社をひととおり調べた記録がある。鳥居についても簡単に言及されていたが、今回、「浦幌神社の120年」展を開催するにあたって再度町内の全神社を巡り、記録写真などを撮っている。そこで鳥居の形にあらためて着目してみた。
 
 写真は活平神社の鳥居。浦幌でもっとも多いタイプの簡素なもの。2本の柱の天に「笠木」を渡し、その下で「貫」が柱を結んでいる。全てが丸太状で、「貫」は2本の柱の両側に突き出さない。
 「白木鳥居」もしくは「御霊鳥居」と呼ばれるタイプと思われる。
 
   
Photo_2
 こちらは常室神社の鳥居。活平神社に似ているが、笠木と貫の間に神社名を書いた「神額」がかかっている。ただし、この神額は笠木に打ち付けてあるだけで、この裏に笠木と貫を補強する「額束」は無い点に注意する必要がある。
 「額束」の有無は、鳥居の分類上けっこう重要らしく、もし「額束」があれば「宗忠鳥居」(むねただとりい)に同定されるらしいが、無いので活平神社と同じ「白木鳥居(御霊鳥居)」。
 
 
Photo_4
 川流布神社の鳥居。「貫」が柱の外に突き出しているのがわかる。また、「笠木」が丸太なのに対して「貫」は平板である。「額束」は無く「神額」が打ち付けられているのみ。
 「鹿島鳥居」に同定された。
 
 
Photo_3
  川上神社の鳥居。川流布神社の形に近いが、笠木の小口が斜めにカットされているのがわかる。 
 分類的には「鹿島鳥居」の種内分類群らしい。ただし、本来、「鹿島鳥居」は「笠木」は丸太だが「貫」は平板らしいのだが、川上神社の鳥居は「貫」も丸太である。
 という訳で、「鹿島鳥居sp.?」くらいしにか同定できない。どなたか、「アノテーションラベル」(植物標本を再同定した時に貼るラベル)を貼って欲しい。
 
 
Photo_5
 これまでの鳥居が、大分類では「神明鳥居」に含まれるのに対し、浦幌で唯一、「笠木」の下に「島木」のある「明神鳥居」に含まれる鳥居を持つ、留真神社。
 
 「島木」の存在の他、「貫」が柱の両側に突き出ており、さらに「貫」と柱の交点には「くさび」も見える。そして「神額」はかかっていないが「額束」がある。
 
 さらに、「笠木」の小口が斜めにカットされているのに対し、その下の「島木」の小口は垂直である。これが検索表の末端部分で、「春日鳥居」に同定される(島木の小口が斜めだったら「八幡鳥居」)。
 
 鳥居の分類方法はいくつか学説があるらしく、「検索表」も何種か呈示されている。それらを比較・参照しながら再同定を楽しむのも面白い。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年8月 7日 (日)

オニハマダイコンが増えてきた?

Photo

 昨日、8月6日は、月例調査観察会「豊北植物調査会」。月に一度の豊北海岸の植物を調べて歩く日だ。
 
 幸いにも天候はすこぶる良く、しかも適度な風もあって熱射病のような心配をする必要もなく、気持ちの良い散策になった。上空には昆布刈石の発着場を発ったパラグライダーが飛んでいて、下から手を振ると、パイロットが手を振り返すのが見えた。
 
 
Photo_2
 ここ数年で道内の沿岸植生を席巻する勢いとも言われるオニハマダイコンは、これまで豊北を含む十勝海岸にはほとんど定着していなかった。全く無い訳ではないが、見つけようと思ってもみつからない程度の、偶発的な個体ばかりであった。
 
 ところが、今日の調査では合計6個体も見つかった。これは驚きと共に、警戒心を強くする出来事である。こんな事は初めてだからだ。今日確認された個体は全て抜き取ってきたが、今後の動向を要注意である。
 
 
Photo_3
 今年はSNS(ツイッター)で「ネジバナリレー2016」が開催されており、全国のネジバナ開花初認日が記録されている。浦幌でも7月29日に確認し、既にデータを提供しているが、今日はちょうど盛りだったらしく、随所で開花を確認できた。
 
 
Photo_4
 なかには白花の個体もある。
 
 
Photo_5
 ハマボウフウは花から果実へ移行しつつある。なにやら美しい昆虫が飛来していた。
 
 
Photo_6
 アカネムグラ。これも花のシーズンは終わりつつある。
 
 
Photo_7
 ヒメシロネはちょうど咲いた頃のようだ。
 
 
Photo_8
 オカヒジキの小さな雄花も見えた。右の黄色いのが尾花、左の白っぽいのが雌花。
 
 
Photo_9
 コケモモの実は赤くなりはじめたところ。ガンコウランは黒熟していて、果実を採りに来ている人の姿も見えた。
 
 
 合計で80種ほどの花の動向を記録。来月も第1土曜日に開催する予定。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月24日 (金)

ようやく晴れて豊北

Photo

 今月は本当に雨ばかりで日が差さず、農業への影響も深刻な状態が続いている。ようやく日の差した24日、昆布刈石と豊北を少し回ってきた。
 
 
Photo_2
2
 天候は良いが、波はけっこう高い。明日からまた天候は崩れると言う。
 
 
Photo_3
 漂着物でつくったのであろう、海岸には不思議なオブジェが組み上がっていた。
 
 
Photo_4
 ハマニガナの咲く、汀線に近い砂浜に、まさに雨後のキノコがニョキニョキと生えていた。
 
 
Photo_5
 本当にニョキニョキと。私はキノコは知らないままにしておこうと思っているので、標本にして知人の研究者へ送ろうと思う。
 
 
Photo_6
2_2
 30年前に「町の花」に指定されたハマナス。ぼちぼち咲いてきている。穏やかで美しいはずの6月の海岸だが、今年は天候に恵まれないのが残念。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年4月 1日 (金)

浦幌学芸1年経過

16

 
 浦幌町立博物館へ来て1年が経過した。昨年のいまごろは、帯広百年記念館での新着資料展の撤収を終わらせてバタバタと浦幌へ移った初日で、まだ自宅も引っ越しておらず、帯広から自動車で急行した。しばらくは帯広住まいであった。
 
 町の暮らしにも慣れ、人々にもいろいろと知り合いも出来て楽しい反面、博物館の仕事で言えば正直なところ帯広百年記念館が懐かしい気持ちがまだ強い。なにせ浦幌は自分しかいないので、とにかく忙しい。それも学芸の仕事で忙しいのとは異なる部分で追われている感じ。また、そもそも学芸員がしばらくいなかったので、学芸員とか博物館というものが組織にいまひとつ浸透しておらず、どう扱って良いのかわからないという感じで扱われている気がする。
 
 空気感で言えば、学芸員の仕事をしているというより、町の役人という感じが強い気がする。事業も博物館の事業か?というようなものが結構あるし、調査研究はこの1年間はまともにする事ができなかった。植物標本にも全くと言って良いほど触れていない(資料扱いについては、技術的な面も含め、これはまずいなあと思い始めている)。
 
 まあ、こうした点が、館が役場や本庁と独立していて、館長や事務職員が専任で配置され、学芸員も複数いるような館と異なるところなのだろうが、まあ、そうした小規模館の問題点を実体験するために飛び込んだのだから、実感を得られて良かったとも言えよう。あとは実感で終わらせず、どう役人から学芸員へと仕事の中身も空気感も変えて行かれるかという事が大事なのだと思う。
 
 帯広含め、たまに中規模・大規模な博物館へ行って学芸員たちと話をしたりすると、いいなあ羨ましいなあと思う面がたくさんある。だが、そうして相談できる学芸員が周囲にたくさん居るという事は大きな力だなあと思う。いいなあ羨ましいなあと感じる面のうち、実際に浦幌で採り入れられるものを選び、状況を少しずつ変えていくしか方法は無いのだろうと思う。
 
 これまで投稿させてもらっていた紀要を、今号から私が編集している。ようやく最新号となる『浦幌町立博物館紀要』の第16号を発刊した。ISSNも取得し、執筆要領なども整備した。体裁を少し変更し、自然史系の短報が投稿しやすい形にした。採集記録とか分布情報とか、幅広く投稿を呼びかけ、多くの方からさまざまな分野の情報を集め、発信していきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月13日 (水)

浦幌の喫茶店「松屋」の資料を頂く

Photo

 
 仕事が終わってから、頼まれていた原稿のチェックをしようと、駅前通りの喫茶店「松屋」さんへコーヒーを飲みに寄ったら、マスターが「マッチありましたよ」と、いまから20年くらい前につくった広告マッチを出してきてくれた。マッチのデザインは創業以来3回ほど変更しており、これはその最後のデザインだと言う。
 
 以前に、町の商店の記録として店名の入ったマッチを集めているとお伝えしたところ、探しておいてくれたのだった。「資料にして下さい」と頂いた他、なんと昭和40年頃の開店当時から10年間ほど使っていたというコーヒーカップまで、「良かったら持って行って下さい」と御寄贈頂いた。感謝である。
 
 
Photo_2
 
「いま見ても古く感じないデザインでしょう」とマスターが言うとおり、まったく今の時代でも違和感の無い、美しいデザインだ。
 
 松屋のマスター、中山光勝氏は、最初、帯広の豆問屋でコーヒーの指導を受けた。その帯広の豆問屋というのが、東京都港区虎ノ門に今も店舗を構える株式会社松屋珈琲店の一番弟子が、1952(昭和27)年頃に開店した店だった。カップの意匠は、その東京の松屋珈琲店で用いていたものであり、浦幌で店を始めるにあたって意匠の許可を得て作ったのだそうである。
 
 この東京の松屋珈琲店、ホームページを見たところ、1918(大正7)年創業の老舗で、しかも創業者の畔柳〔くろやなぎ〕松太郎氏というのが、日本のコーヒー史上、忘れてはならない人物のようだ。1908(明治41)年にブラジルへ渡った第1回移民団の栽培したコーヒーが、1914(大正3)年になって初めて日本へ送られた際、神戸港にそれらを受け取りに行き、まだ国内消費量がほとんど無かった時代に、皇国殖民合資会社のコーヒー担当として売り捌き、普及に貢献したのだそうである。1921(大正10)年には、自らも独立してコーヒー豆問屋となり、現在の松屋珈琲店を設立した。
 
 一方、浦幌の松屋は、先代の故中山晃明氏の代はなんと駄菓子屋であった。お店を継ぐにしても、「これからの時代はもう駄菓子屋はなあ」と考えた光勝氏(現在のマスター)は、もともとコーヒーが好きだったので喫茶店を選択した。そして、1985(昭和60)年に晃明氏が亡くなるまでの20年間は、駄菓子屋の2階で喫茶店を開いていたのだと言う。この1階の駄菓子屋がそもそも「松屋」を名乗っており、当時は2階の喫茶店も松屋だったそうだが、仕入れていた問屋も「松屋珈琲店」であり、名前に偶然の縁があったという事なのだろう。
 
 その他、帯広喫茶連合会の記念誌も見せて頂いた。現在、加盟店舗は40ほどになり、帯広以外の郡部で加盟している店は4店舗ほどしかないそうで、マスターも役員を務めている。店内にはこの喫茶連合会の会員証がカウンター横に掲出されているが、そう考えるとこの会員証も貴重な資料とも言える。
 
 毎日、夜遅くまで店を開けている松屋さんの歴史は、浦幌の商店街の歴史でもある。資料と共に、またいろいろとお話を聞き、記録化していきたいと思う。
 
 
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015年11月 2日 (月)

上厚内神社最後の日

Photo

 木造駅舎で知られる上厚内集落は、人口が減少し、集落の神社をお守りしていく事が厳しくなった。そこで、浦幌神社へ合祀される事となり、今日、遷座の儀と合祀祭が行われた。
 
 
Photo_2
 上厚内神社の前を通過して上厚内駅へ進入する上り列車。既に神社の標柱は昨日のうちに抜き取られ、浦幌神社へ移されている。このあと遷座の儀が17時30分より開催され、神社としての役目を終える。
 
 
Photo_3
 小さな拝殿からのぞいた祭壇。大きな鏡が目立つ。八幡大神と大山祇(オオヤマツミ)大神の2柱の神様が祀られている。
 
 
Photo_4
 神社内に残る書き物などによると、1928(昭和3)年に八幡神社として祀られたのが始まりとされるが、実は前史があり、1909〜10(明治42〜43)年にこの地へ天照大神を祀ったとの記録も見られ、はっきりしない。
 1928年に八幡神社として祀った際の立役者が今村浅次郎という人物で、社殿内に肖像が残されていた。これらは後日、浦幌神社の御輿殿へ移送される事になっている。
 
 
Photo_5
 最後の玉串奉奠。わずかな人数となった上厚内地区の氏子の方々が、厳かに玉串を献げる。
 この後、浦幌町ただ一人の神主である浦幌神社の脊古宮司(右)により、御神体が運び出され、浦幌神社へ遷られた。
 「おおーっ、おおーっ、おおーっ」というかけ声と共に宮司が神様を抱いて出て行くと、直ちに社殿内の片付けが始まった。
 
 
Photo_6
 本殿の扉が閉じられ、畳の上げられた社殿内。上厚内神社の歴史が終わった。
 
 
Photo_7
 宮司の手によって運ばれた神様をお迎えし、続けて浦幌神社で合祀祭が開かれた。この後の直来まで出席し、上厚内集落の皆様にご挨拶をして辞する事にする。
 
 小さな神社でも閉じるとなると思いはいろいろとあると思われる。直来で総代代行の方がご挨拶されていたが、もともと総代の方が人口減少により合祀をしたいという願いを持っておられたそうだ。だが、合祀前に急逝されたため、この日の遷座・合祀となった。
 1928(昭和3)年の八幡神社を起源とすると、記録によれば創建は11月7日という事になる。そこで、合祀祭も同じ11月になったらしい。「神様をお祀りする形は変わっても、今後は浦幌(本町)から上厚内をお守りくださっている事に変わりはありません」という宮司の言葉が印象的であった。
 
 博物館でも、神社と相談し、記録化と資料の保存に努めていく計画である。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧