地理

2016年9月10日 (土)

都市間バスで釧路へ帰る

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 教育大学での集中講義が終了した9月1日。さて、浦幌へ帰ろうと思っても、折からの台風の影響で鉄道も道路もズタズタに。狩勝峠、日勝峠、道東自動車道、三国峠がいずれも不通となったため、都市間バスでダイレクトに十勝へ帰る事もできない。
 
 
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 情報を得て前日の晩のうちに調べてみた結果、旭川から釧路へ向かう都市間バスが、28日から運行を再開している事を知り、とりあえずその便で釧路へ出る事にした。そもそも帯広まで戻ったところで、帯広から浦幌までの交通手段が無かったのである。
 
 
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 ちなみに、この間、旭川市は毎日晴天で暑かった。夏日そのものである。台風の通過時は、夜間に若干風が強くなったが、被害は無かった。前回、8月の台風の時の方が、河川の増水など影響が大きかったらしい。旭川駅。
 
 
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 旭川駅前は、目下、西武百貨店が9月で閉店するのが大きな課題となっている。集中講義に来ると、百貨店内にある無印良品や三省堂書店、ロフトの文房具売り場などに行く事があったが、それも今年で最後となる。
 
 
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 買い物公園から見たところ。閉店売り尽くしの表示が見える。実際、西武百貨店の閉店は、買い物公園へ少なからず影響を及ぼすと思われる。
 
 それにしても、旭川は札幌に次ぐ北海道第2の都市。そこからデパートが無くなってしまうとは・・・。そう考えると、帯広の藤丸百貨店は頑張っているんだなあと、あらためて思う。
 
 
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 さて、旭川から釧路へ向かう都市間バス「サンライズ号」は、道北バスと阿寒バスの共同運行便である。私が乗車した車両は、阿寒バスのオレンジ色の車両だった。
 やはり台風被害の影響で石北峠は通れず、旭川・紋別自動車道を経由。このため、石北本線に併走する形で留辺蘂まで出て、(この間の道路がどこを走っているのかよくわからなかったのだが)津別を経由し、阿寒を越えて釧路入りした。
 途中、留辺蘂と津別の間のセブンイレブンで30分間ほど休憩があり、そこで旭川行と交換。運転士はここでお互いに交代し、出発点へ戻る仕組みらしい。旭川行きは道北バスの車両だった。
 
 
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 上川付近で見た石狩川の流れ。水は濁り、ごうごうと流れている。やはり増水しているのだろう。寸断している石北本線の様子もチラリと見え、台風被害の大きさを実感した。
 この日は釧路の妻の家に泊まり、翌朝、妻の自動車を借りて浦幌へ帰った。
 
 

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2015年1月14日 (水)

逐次刊行物の見出し作りで地理を楽しむ

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 全国から送られてくる博物館出版物を収蔵する文献室の逐次刊行物書架を整理し、地区別、館種別の見出しを製作した。

 県別に北から進んでいくと、いつも迷うのが東海、信州、中部、北陸といったあたりの順番。神奈川県の次に何県が来るべきか?具体的にはいつ新潟県に出るべきか?そしてどう中部圏を脱出するべきか?が悩ましい。

 

 総務省の自治体コード順では、

 

東京→神奈川→新潟→富山→石川→福井→山梨→長野→岐阜→静岡→愛知→三重→滋賀


 の順序になっている。


 図書館の分類体系である「日本十進分類法」(NDC)でも、地理区分番号はこの順序になっている。


 日本郵便が発行する『郵便番号簿』は、

 

神奈川→山梨→長野→新潟→富山→石川→福井→岐阜→静岡→愛知→三重→滋賀

 

の順序になっていた。神奈川の次に山梨が来るのは、神奈川出身としては落ち着くのだが、静岡がえらい遠いなという感じがしないでもない。

 

 ちなみに、わが博物館業界をとりまとめている日本博物館協会はさらに複雑怪奇で、『博物館園職員録』などの配列は、

 

東京→山梨→静岡→愛知→岐阜→神奈川→新潟→富山→石川→福井→長野→三重→滋賀


 になっている!なんだこれは?

 この本、ほんといつも目的の博物館を探しづらくて困るんだが、どういう根拠でこんな配列になっているんだろう。

 

 ところで今回、三重県をどこに入れるべきかかなり迷ったのだが、三重県はその位置づけが「中部」「近畿」「東海」など、区分法によって異なるのがその原因らしい。 

 

 再び図書の分類基準である「日本十進分類法(NDC)」の地理区分を見ると、三重県は中部地方(-15)に分類され、近畿地方(-16)とは区別されている。

 比例代表選挙の近畿ブロックからも三重県は外されており、東海ブロックに入っている。

 一方、国土地理院がGISデータの補正に用いる為に定める「平面直角座標系」というものでは、三重県は第6系の近畿に入っているという。これはフェイスブックで大学の後輩から教えてもらった。

 ちなみに酪農学園大学の同窓会区分では、三重県は最初「近畿」に入っていたのに、いまは「中部」へ区分が変わっているという。これもフェイスブックで同窓会事務局の方から教わった。 

 

 たしかに三重県は、明治時代に定められた八地方区分では近畿に位置づけられており、以来、小学校の教科書ではこれを踏襲してる。だが、これはあくまで学校教材(元は『小學地理』いまの社会科)で用いられているというだけで、実は行政的には今も「**地方」の定義は無いはずである。

 

 今あるのは先に掲げた総務省の地方自治体コードで、6桁ある番号の頭2ケタが都道府県を示す番号だ。ただ、このコードも順序だけで、地方区分はしていない。

 

 郵政省が解体されて以後、郵便局は総務省の管轄だが、『郵便番号簿』を見ても三重県は近畿からは外されており、東海に区分されている。

 

 ちなみにNDCでは、山梨県も中部地方-15の筆頭に位置づけられており、関東地方(-13)とは区別されている。これ神奈川県から見ると全く不思議な感覚なのだが面白い。

 

 ちなみにフェイスブックで友人知人達とこの事を話していると、かなり「近畿だ」「中部だ」とかなりいろいろな御意見を頂いた。近畿日本鉄道が走りまくっている三重県は、JRではJR東海が大半を管轄している。東西で文化圏が異なるという意見もある。地理って面白いなとほんと思う。

 

 

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2015年1月 3日 (土)

正月2日は瀬戸から横浜へ行く

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 明けて正月2日。妻と別れ、ここからは単身で神奈川県を目指す。瀬戸市付近は雪が目立つが、名古屋市へ向かうにつれて雪が消えて行った。気候が少し変わるのか。

 

 

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 八草からリニアモーターカーのリニモへ乗り、藤が丘へ出る。軌道の形が珍しく、道床ごとずれるポイントの形は跨座式モノレールを彷彿とさせる。

 

 

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 ホームもホームドアがぴったりと連動する形になっている。完全自動運転のために運転席は無人で、代わりに鏡餅が座っていた。

 

 

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 藤が丘から、昨日下車した千種までは名古屋市営地下鉄東山線に乗る。今日の車両は昨日とは異なり5000形。藤が丘駅にて。

 

 

 

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 実は地下鉄東山線に乗れば、そのまま名古屋まで出られるのだが、国電区間も含めて中央線を東京から乗り通してきた以上、きちんと名古屋までの全区間を乗り通すのが本線に対する礼儀であろう。という事で、昨日下車した千種から再び中央西線に乗り換え、名古屋へ出る。

 高蔵寺で非常停止ボタンが押されたとかでしばらく停車したため、11分遅れで千種へ入線する中央西線快速5720M。

 

 

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 このあと横浜へ向かう私にとっては、途中の金山~名古屋間が復乗となる。このため、はみだした区間の往復運賃を納める復路専用乗車券が清算窓口で発売している。これを入手するのも今回の目的のひとつであった。

 

 

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 名古屋へ到着し、ホームできしめんを食べていると放送が入り、なにやらまた列車の遅れを伝えている。ホームに居た助役に、乗る予定だった新快速について聞くと「この列車はもう今日は動かないと思いますよ。垂井~大垣間で自動車が橋桁に衝突したので、安全確認のため運行打ち切りだと思います。」

 この新快速5324Fは米原から来るので、途中の垂井〜大垣間で起きた自動車事故の影響を喰らってしまったようだ。1本はやい5508Fならば事故区間のすぐ手前にある大垣始発だから良かったのだが、きしめんを食べているうちに行ってしまった。

  豊橋まで行くというと、次の快速5510Fに乗れと言う。だが、隣のホームには先に出る岡崎行普通3154Fが停車している。念のために車掌氏へ聞くと、途中の刈谷で後から来る快速5510Fへ乗り継げると言うので、刈谷まで座っていく事にする。

 

 

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 いろいろトラブルはあるが、それでも千種駅で買った時刻表を繰りながら善後策を練っての汽車は楽しい。金山でたくさん乗車し、さらに熱田で破魔矢などを持った人がたくさん乗って来て列車は結構混んできて、大府で大量に下車があった。

 刈谷で後を追ってきた快速5510Fへ乗り換えて豊橋へ向かう。刈谷駅ホームには、嵩上げ前の古いレンガが残っていた。

 

 

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 豊橋に到着。掛川行の普通列車5950Mへ乗り換える。車内保温の為、1両に3つあるドアのうち真ん中の1つだけを開けている。同じ客室内保温でも、JR北海道とは方法が異なり面白いが、結構混んでいるので不便な気がする。

 豊橋の次の二川を出たところで愛知県を出て静岡県へ入った。車内は結構混んでいて、県境を越える利用がけっこうあるんだなと興味深く旅客流動を観察する。

 赤ちゃんが泣いていたが、お父さんがあやしても泣き止まず、お母さんに抱かれると泣き止むのが面白い。

 浜松で大量に下車し、再び大量の乗車があったが、それも豊田町、磐田まででほぼ降りる。袋井では、揃って眠っていた母娘がふと顔を上げ、「あれえ降りるよ」と叫んで飛び降りて行った。定刻に終着掛川に着く。

 

 

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 掛川では10分の接続で興津行794Mへ乗り継ぐ。合間に駅前へ出てみると、新しく綺麗な木造駅舎だった。

 

 

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 駅舎の中も小ぎれいで、キヨスクもあり、整っている。天竜浜名湖鉄道、昔の二俣線の接続駅で、そちらの駅舎も隣接して建っていた。

 

 

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 ホームにはやはり嵩上げ前の古いレンガが見える。東海道線は歴史を感じさせる施設が多く、特にトンネルにもレンガが多く見られ、興味深い。

 

 

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 やってきた興津行794Mへ乗り継ぐ。左が794M。右は今乗って来た5950Mが折り返すところ。

 

 

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 島田、焼津そして静岡とけっこうな乗降があり、清水で少し空いた程度で、立ち客の残るまま興津着。3番線が区間運転列車の指定席らしい。山が迫る駅のホームに自分の影が伸びる。

 

 

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 興津は17-8年前に一度降りた事がある。酪農学園大学の先輩が住んでいた時に泊めてもらったのだった。先輩いまごろどこでどうされているだろうか?駅舎も駅前の様子もかなり変わっていた。

 

 

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 これまで随所で見られた静岡県立美術館の企画展「風景の解剖学」のポスターが気になる。もちろん行く事はできない。興津で10分の接続により熱海行440Mへ乗り継ぎ。

 

 

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 新富士付近では山頂が隠れた富士山が見えた。この区間はお茶どころで、車窓には茶畑が広がっている。

 この列車も結構混んでおり、立ち客が多い。東海道線は比較的どこも混んでおり、正月の買い物、初詣、旅行など多方面で鉄道が信頼を得ている姿を目の当たりにできた。

 

 

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 長い丹那トンネルを抜けて熱海着。場内信号機の都合で入線にしばし時間を喰った。

 ここまで乗って来た440Mは、さっそく折り返し島田行の方向幕に回転している。列車の状態を指差確認する女性車掌さん。キビキビとした動作確認を見ていると、自分もやはり鉄道員になれば良かったなと思う事がある。

 

 

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 熱海でJR東海からJR東日本へ変わり、列車も3両編成から一気に15両編成となった。編成が長すぎて先頭の写真を撮る時間が無い。

 伊東線が若干乱れており、乗り継ぎの東京行快速アクティ3766Mは3分遅れて発車した。その後も大船を発車して程なくプーップーッという警報音と共に緊急停車。2分ほど停車の後、乗客による非常停止ボタンの誤操作と判明して運転を再開したが、今日は非常停止ボタンによく泣かされる日だ。これも正月多客期のためなのだろう。定刻より2分ほど遅れて17時59分、横浜へ着いた。

 ここで東京からの乗車券は終わり。改札口を出て東急東横線へ乗り換える。

 

 

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 やってきたのは営団7000系で、これが東横線かと一瞬ひるむ。永年慣れ親しんだ東横線だが、どうも渋谷駅が地下へ移り副都心線直通となってからの運行形態がまるでわからなくなった。

 

 

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 父方最寄りの綱島へ到着。次の日吉でも良いのだが、どちらにしてもここからバスに乗り換える。

 高校を出て一時期は、ここでバスの誘導員をしていた。当時とはいろいろ変わったが、高架下に設けられた後退式の発着所や狭くてゴチャゴチャした駅前。バス降車停留所の看板は昔のままだ。

 

 

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 綱島駅バスのりば側。とにかく道が狭く、バスやらタクシーやら乗用車やらバイクやら人やらで常に混雑している。

 

 

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 改札口が増設されたり塗装や壁の感じが変わったりしている中で、この「バス降車停留所」の看板は41年間同じである。なぜそう言い切れるかというと、私は幼少の頃、この看板で「停留所」という漢字を覚えたからである。

 

 

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 路線バスの操車場となっている綱島駅バスのりば。一番手前の6番乗り場に市営59系統が入線しているが、昔は隣の5番乗り場を東急バスと共用していたはず。いつ変わったのだろう。

 私は4番のりばから「城01系統」の東急バスに乗って帰る。これが今日最後の交通機関。

瀬戸を出たのが10時頃、父方へ着いたのが19時ころだから、9時間くらい。愛知県瀬戸市から神奈川県横浜市港北区までの移動としては、思ったよりも早かった。今年もいろいろな公共交通機関に乗る一年にしたいものである。

 

 

 

 

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2015年1月 2日 (金)

元旦、松本から愛知県瀬戸市へ行く

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 明けて元旦の朝、雪の舞う中を少しだけ市内見学に回る。お正月で松本城の天守閣などに登る事はできなかったが、城の構内は無料開放されており、入口では記念の絵葉書まで頂いた。
 私は日頃あまり城を見て回ったりする事は無いが、雪の中の松本城は美しかった。
 
 
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 元旦という事で和太鼓が打たれていたり
 
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 よくわからないが、甲冑を着た武士がいたりした。この後は書き初め大会も予定されているそうで、松本のシンボル国宝松本城をさまざまに活用しているようだ。
 
 
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 城のあちこちには数種類の家紋が掘られている。なかでも気に入ったのが水野氏の「丸に立ちおもだか」の紋。オモダカ Sagittaria trifolia L.の葉の両側に2本の花茎を立たせている図柄は、水草研究会の会員としてもとても楽しめる。
 
 
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 松本城の植物の話題としては、あちこちに見られるヤドリギ。写真の右にも大木にたくさんのヤドリギが着生しているが、どれも北海道で見るヤドリギに比べてすこぶる大きい。
 
 
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 この写真ではよくわからないが、どのヤドリギも真っ黄色だ。近づいて見てみると、黄色い果実をたわわに実らせているのがわかった。野幌でよく見るようなアカミヤドリギは見た感じ無く、どれも黄色い実がついていた。
 
 
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 さらに「宇宙ツツジ認定26号」なるものもある。女性宇宙飛行士の向井千秋さんが宇宙へ持っていったツツジから得られた種子から育てたものらしい。詳しい説明は雪で開設板が埋もれていてわからなかった。26号という事は、他にもどこかにあるのだろう。 
 
 
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 お城の門の外だがお濠の内側に建つ松本市立博物館。同業者である私達が休みなのだから、こちらが休みでも当然文句は言えない。この稼業、他の博物館の展示を見る事がなかなか難しい部分がある。あらためて見学に来てみたい。
 
 
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 お城を出て北へ進むと、カトリック松本教会があった。元旦は神社やお寺が初詣で賑わうが、キリスト教会でも元旦ミサや礼拝を行うところが多い。松本教会も、帰りに通りがかった際には、元旦ミサに向かう人々が集まり始めていた。
 
 
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 そのカトリック松本教会のフランス人神父であったクレマン師が、1889(明治22)年に建てた司祭館が、移築・復元されている。下見板張りに青い立方体状の建築物で、元は旧武家屋敷跡地にあったそうだ。現在は教会の手を離れて松本市へ寄贈され、教育委員会が管理している。
 
 
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 その司祭館の横に建つのが、有名な旧開智学校校舎である。1876(明治9)年に、やはり市内の別の場所へ、約7割の資金を当時の松本全住民からの寄附でまかない、建てられたという。1963(昭和38)年に現役の小学校としての役割を終えた後に解体。この地へ移築・復原されて、今は教育資料館として公開しているそうだ。
 
 
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 横から見たところ。塗色がなんとなく北海道大学の古河講堂を彷彿とさせる。先の司祭館よりも移築はむしろ開智学校の方が先で、司祭館は1991(平成3)年に隣へ復原されたとのこと。こちらも正月はお休みで入れなかったが、今度あらためて見学に来てみたい建物だ。
 
 
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 旧開智学校の横には現役の開智学校・・・松本市立開智小学校が建つ。明らかに旧開智学校校舎を意識した様式の校舎になっていて面白い。
 
 
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 松本城の周囲は神社やお寺、教会が多い。松本市総鎮守らしい松本神社。拝殿に高低差が無くフラットに近いのが珍しく感じる。
 
 
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 やはりお城に程近い日本聖公会聖十字教会も、2010年で100年の歴史を刻んだという古い教会だ。
 
 
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 冷え切った体をいったん喫茶店で暖めた後で松本駅へ移動。今日は松本から愛知県瀬戸市へ移動する。
 
 
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 乗車券は昨日の続きの東京都区内から横浜市内行きに、複乗となる篠ノ井線の松本から塩尻までを加えたもの。利用する列車は松本発名古屋行きのL特急ワイドビューしなの12号なので、その特急券がさらに加わる。
 
 
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 塩尻から先の中央西線は、私にとって初めての乗車区間であり、今回非常に楽しみにしていた。新潮社の『鉄道旅行地図帳』を片手に車窓に目を凝らす。日本アルプスの山々の隙間を縫うように流れる川に沿って、松本盆地から名古屋を目指すこの区間は、折からの雪景色も加わって想像していた以上に美しく、興味深かった。
 写真は途中で停車した木曽福島駅のホーム。降りしきる雪で、駅の外がよく見えない。この日、日本海側から中部地方は荒れた天候で、雪と寒さが厳しかった。いつしか県境を越え、長野県から愛知県へ入る。
 
 
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 雪煙を立てて中央西線を疾走してきたL特急ワイドビューしなの12号。この日は終点の名古屋まで乗らず、停車駅でひとつ手前の千種で途中下車する事にした。ここで名古屋市営地下鉄東山線へ乗り換える。
 
 
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 藤が丘駅に停車中の名古屋市交通局N1000形。藤が丘からはさらに愛知高速交通のリニアモーターカー「リニモ」へ乗り換え、瀬戸市へ達する事ができた。元旦の移動はここまでで終わる。
 
 

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2015年1月 1日 (木)

年末、信州松本へ行く

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 12月31日、釧路空港から東京へ飛び、妻の実家の愛知県へ向かう。釧路空港の出発表示器は通称パタパタと呼ばれるソラリー式(反転フラップ式)。かつては駅でもよく見かけたが、最近は少なくなってきたように思う。

 
 
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 せっかくなので中央東線経由で松本へ立ち寄り一泊。翌日に中央西線で名古屋へ出た後、単身横浜の生家へ向かう事にする。そのため、乗車券は東京都区内から横浜市内行き、経由地が中央東線、中央西線、東海道線となる。さらに塩尻〜松本は篠ノ井線に飛び出すので、あらかじめ往復乗車券を用意した。中央西線を乗り通すのは今回が初めてだ。
 
 
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 往路の特急はスーパーあずさ19号。新宿駅始発だが、せっかく乗り通すので電車区間始発の東京駅から乗る。
 
 
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 折しも甲州・信州は雪と風が強くなってきた。強風のため、信濃境〜富士見間にある立場川鉄橋の信号が赤になったらしく、手前で緊急停車。しかし、それほど大きな混乱もなく、無事に松本へ到着した。
 
 
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 大晦日という事で、雪舞う中ではあるが宿場の近くを少し散策した。「四柱神社」というのがあり、行ってみると大勢の人が繰り出して初詣に並んで大賑わいであった。
 
 
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 四柱神社門前町の「なわて通り」の年越し風景。夕方は閉まっていた店々も開き、甘酒などをふるまっていた。
 
 
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 それにしてもなかなか寒い。寒いが、城下町の趣のある街中に雪が降ると、その光景は夜でも美しい。寒い寒いと言いつつも、除夜の鐘の鳴る街並みを眺めつつ宿場へ戻る。

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2014年10月 8日 (水)

バスに乗れない役人たち

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 誠にお恥ずかしい限りなのだが、当館の職員の大半が、当館から駅までの、あるいは当館までバスで来るためのルートや時間を調べる事ができない。バス停の場所すら知らない。お客さんからバスについて問い合わせがあっても、自分の言葉で答える事ができない。理由は、自分がバスなど全く乗らないからである。
 
 首都圏や札幌に在住の人ならば、バスは身近な交通機関である。だが、帯広の人は本当にバスに乗らない。その比率は驚くべきほどである。最近、黒字を達成した十勝バスが、その方法のひとつとしてバスの乗り方講座をしたという新聞記事があったが、実際にどうやって乗ったら良いのかわからない人が大半なのである。
 
 これはもちろん理由があり、不便だからである。ただ、この不便さには条件が付く。少なくとも当館に関する限り、道東という交通事情の中から見るとバスの便はかなり良い方だ。最寄りのバス停へは平日には1時間に2本、少し離れたバス停ならば2つのバス会社の便があって1時間に3-4本が運行している。神奈川県横浜の私の生家のバスでさえ1時間に2本なのだから、もっと便利だと言う事もできる。
 
 帯広の人がバスに乗らないのは、自家用車で好きな時に好きな場所へ行ける、という事と比較しての不便さである。それだけ車社会が成熟しているという事だ。都会に比べ行動範囲の距離が必然的に広くなるので、これ自体は悪い事ではない。十勝で暮らすという事はそういう事なのだと思う。
 
 だが、当館のような公共施設に勤務する役人の場合は話がまったく別である。博物館は多くの人に足を運んでもらうための施設であって、その中には車を運転できない方も当然含まれる。遠方から旅行で来られる方もいる。そうした人達に対して、近くをバスが運行しているにも関わらずその案内ができないというのは、公共施設の役人として言語道断に不勉強で恥ずかしい事だと私は思う。
 
 だが、その原因を作ってしまったのは私かもしれない。これまで、館内でバスの問い合わせがあると私が回答していた。ダイヤ改正や運賃改定がある際の資料も私が用意していた。私に回せばなんとかなる、という思いが館に定着してしまった感がある。これは私の対応のまずさだったかなと思う。
 
 なので本日をもって、私は路線バスに関する回答を原則受けない事にした。これからは自分たちで勉強しろ、まずは最寄りのバス停まで足を運んで場所とルートを確かめ、その後は実際に駅までバスで往復してみてみるように、と全体の打ち合わせで公言した。実際に彼らがそうするかどうかはわからないが、こうして突き放さないといつまでも私に甘えて自ら学ぼうとしない事は明白だからである。
 
 ところで、生活上バスを利用していない役人たちにバスでの行き方、利用の仕方を学べというのは、本来は業務であるはずである。私は勝手に「自分で学べ」と言ったが、実はこの部分が本当はひっかかっている。労働運動の観点からは、勤務館へのバスの使い方は、本来は業務として、すなわち研修として実施するべきだと思う。
 
 これは百年記念館に限らない。帯広市は本庁勤務の者も含め、積極的にバスの使い方を学ばせるべきで、そのための研修を公的に実施すべきである。だいたい米沢市長や教育長はバスに乗った事があるのか?市長はともかく、教育長や生涯学習部長なども、当館へ来る時はいちどは路線バスを利用して来てもらいたい。そして実際のルートやバス停の位置を知り、問題点などを実感してもらいたい。フードバレーと路線バス問題は、地方農村に共通する課題だと私は思っている。ぜひ考えて欲しい、と今度直談判しようと思う。
 
 
*市長と教育長を名指しで批判する事に対する問題点の指摘を頂きました。市長については政治家ですから問題ないと考え据え置きますが、教育長に関しては確かに公人ではあるが直接選挙で選出された政治家とは異なるので、適当でないかもしれません。なので教育長の氏名のみ削除する事にしました。
 
ただ、教育長、たまにはバスで来てね。
 
 
 

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2014年9月26日 (金)

洞爺丸台風から60年

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 本日9月26日は、青函連絡船洞爺丸が座礁・転覆し日本海難史上もっとも大きな被害を出したと言われる台風被害から、ちょうど60年目の日である。いまから10日ほど前の9月17日、ちょうど自動車で道南方面へ行っていた際に、函館まで足を伸ばし、慰霊碑へ立ち寄ってきた。
 
 
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 函館の七重浜という所に建つ慰霊碑。この碑の正式名は「颱風海難者慰霊之碑」で、昭和29(1954)年9月26日の十五号台風で被害に遭った5隻の青函連絡船被災者の慰霊のため、昭和30(1955)年8月に建てられた。
 
 まだ事故のあった日からは10日ほど早いが、既に多くの花が献げられている。
 
 
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 「洞爺丸台風」と呼ばれる事が多いが、この時に被害にあったのは洞爺丸だけではなく、日高丸、十勝丸、北見丸、第十一青函丸も被災していた。旅客の乗っていない貨物便や湾内錨泊中船舶の乗組員捜索は後回しとなり、遅い船では事故から10日後の捜索だったと言う。
 
 この慰霊は洞爺丸が座礁した七重浜に建つ。以前から気になっていたのだが、列車で函館へ行く際には時間が無く訪れた事がなかった。今回は自動車で来たので、この慰霊碑や北海道大学水産学部の水産科学館を訪ねる事ができた。
 
 
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 ちなみに、慰霊碑へ行く前に立ち寄った北海道大学函館キャンパス(水産学部)構内に建つ水産科学館。札幌キャンパスに建つ北海道大学総合博物館の分館である。かつて私が製作した図録が、玄関で今も配付されていて嬉しい。
 
 
 

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2014年8月18日 (月)

自由研究の思い出

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 古今書院の月刊『地理』8月号。特集は「地域調査士」。我が十勝地方からは上士幌町の博物館「ひがし大雪自然館」の乙幡康之学芸員が「博物館における地域調査とその魅力」と題して、興味深い報文を寄せている。
 
 地域調査と言えば自由研究という思いが私の頭にある。そして私自身の経験で思い出す事がある。
 
 私が中学2年生の社会科の自由研究で、近くの県道の交通量調査をした。トラックが何台、自転車が何台・・・と「正」の字で1時間ごとに記録していくヤツである。

 提出した後の講評で、母校である横浜市立新田中学校の長谷川先生という地理の先生が、私の研究を授業でとりあげてくれた。
 
「視点はとても良い。身近な場所で、自分できちんとデータを採って集計している。ただ、これだけでは<調査>であって<研究>ではない。なぜこの場所、この時間にトラックが多いのか?などという、この結果が得られた背景について、自分なりの考えを示すところまでやって初めて研究になる。惜しい」
 
 当時、私には<調査>と<研究>の違いがわかっておらず衝撃的だったのだが、今ならもちろんわかる!そして、今そのデータさえ残っていれば、横浜へ帰った時に四半世紀ぶりに同じデータをとって比較し、今度こそれっきとした交通地理学の研究としてまとめられるのに…と毎年この時期思い出しては苦い思いをしているのである。それにしても長谷川先生の地理の授業は面白かったなあ。

 で、何が言いたいかというと、けっこう自由研究ってバカにならず、いろんな生データがとられては忘れられているのだろうなあと思う事だ(大学の卒論も同じだが)。各学校の自由研究をまとめたような報告書とか無いのかなあと思う。
 
 そして、地域調査士とはまさに「調査」を「研究」にしていく仕事なのだろうなあと思う事だ。地域調査士の方が指導力を発揮して、我々学芸員や司書さん達もこれに加わって、自由研究や卒業論文の力を引き出せば、魅力的な地域研究がどんどん厚みを増していくのではないか。今月の『地理』を読んでそんな夢を抱いた。
 
 

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2014年8月 6日 (水)

滝川駅前のたこ焼き屋「たこ丸」にて

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 先日、10年ぶりくらいで滝川駅へ降りた。かつての印象で降り立った私には、駅前のさびれようが驚愕であった。
 
 記憶では確か小さな‘たこ焼き屋’があったなあと思い駅前から歩き出すと、果たして「たこ丸」は営業を続けていた。
 
〔駅前がとても寂しくなった〕もうアカンですわ。駅も町も無くなるんちゃうかと思いますね」
 
「10年前だったらまだ西友があったでしょ。西友が出てから、そらもう中のモンは皆出て行ってしまって、今はもう何も入ってへん」
 
「あの頃、旭川とかみたいにJRA(場外馬券場)入れるとか、いろいろ話があったんですよ。でも治安が悪くなるとか何とか反対もあって。結局何もかも話は立ち消えになって結果こうですわ。もう今さら何も出来んとちゃうかなあ」
 
「駅前商店街はね、アーケードの使用料やら組合費やら、それに家賃。けっこうかかるんですわ。地主さん達は昔の感覚のまま。良い時代の感覚のままなんで、賃料がたこうて。今の時代、うんと安うしてボンボン店入れなアカンのに、居着きまへんわ、こんなんじゃ」
 
「こういう商店街は税制面で押さえられとるんで、特になーんにもせずに、ただ昔のまんま空き店舗維持しているだけでも、地主さんは痛くないんでしょ。だから、なーんも変わろうとしない。古いまんま、ボロボロのまんま、放ったらかしですわ。しょーないわ、もう」
 
 
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「僕は、もともと大阪でサラリーマンやったんですわ。医療系の。もう、給料もらうのも払うのも嫌になって、こっち来て始めたんですわ」
 
〔どこでたこ焼きは修行したの?〕修行?いや、なんも、大阪の人はみんなたこ焼き焼けるんで、特になんもしとらんです。ま、本当は大阪にもたこ焼き出来ない人おりますけどね。でも大体こんなんくらいやったら、皆できますんで」
 
「親がこっちの人でね。親の体の都合とかで、私らもこっち来たんです。もう15年前くらい」
 
〔「たこ焼き部」の部員募集の張り紙があるけど〕ここ高校生の溜まり場なんですわ。その子たちが代々ここを拠点に活動していて、毎年部長選んで〔ポスターには歴代の部長の名が記されている〕
 
「僕らの世代くらいが最後ちゃいますか?学校帰りに喫茶店やらこんな店やらに溜まり場もっていたの。今はファミレスとかなんとかありますけど、ブースが別れていて、お互いのグループ決まっていて、その垣根を越えた溜まり場ってないでしょ。うちはこんなんだから、もう店の中の子はどの学校の子もみんな仲間になっちゃう」
 
「ええ、同じ学校の子だけやなしにね。いろんな学校の子が来て、だんだん仲良うなっていくんですわ。それでたこ焼き部。近くの介護施設にボランティアに行ったりね。けっこう今の子もしっかりしてますよ。溜まり場があって仲間が作れて、きちんと活動できる場さえあったら、自分で何でもやっていきますよ」
 
「前ね。彼ら献血バス呼んだんですわ。あれね、1台で1日80人〔の献血を受け付けるのが〕が限界って言われてたんです。彼らそれ、1日で120人集めちゃって・・・。日本一の記録やったんですわ。それで表彰されたりして、すごいでしょ」
 
「僕はなんにもしてません。たこ焼き部言うたって、彼らがこの場にしょっちゅう溜まり場で来て、なんやだべって、賑やかになって、それでいろいろ活動してる。僕は場所を提供しているだけなんです」
 
「今は夏休みなんでガランとしてますわ。なんや蒸し暑くてかないませんわ。大阪も暑いですけど、こっちもこの頃おかしいんとちゃいますか?」
 
 私と同じ41歳。古くて狭い店内には椅子が7脚。しかし奥に小上がりらしきものも見え、学校が始まると高校生の賑やかな声が集まるのであろう。
 
 たこ焼き屋「たこ丸」。今日も疲れ切った滝川駅前商店街の一角で店を開き、暑い中、たこ焼きを焼いているはずである。
 
 
 
 

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2014年8月 1日 (金)

今日読んだ論文

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 今日読んだ論文。
 
 わずか9年間しか存在しなかった山梨県の「祝村葡萄酒会社」。その存在は、日本に葡萄酒製造業という近代産業が勃興・確立していく嚆矢として無視できないだけでなく、その歴史を注意深く見つめると「産業によって地域が形成されていく」過程が鮮やかに読み解ける。
 
〔葡萄栽培の為の〕開墾地ニ栽ルニモ葡萄ノ収利ヲ見ル迄ハ、其地相応ノ下タ作ヲ為スヲ善トス・・・のくだりは、その冷静な判断力と指導力に深い感銘を受けるし、会社解散後も関係者が継続して同地で新たな葡萄酒会社の担い手になり、やがて日本有数の葡萄酒生産地へ発展していくという結末には、感動すら覚えた。
  
 
湯澤規子 2013.山梨県八代郡祝村における葡萄酒会社の設立と展開 :明治前期の産業と担い手に関する一考察.『歴史地理学』55-3:pp.1-22.
 
 

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