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2017年2月

2017年2月15日 (水)

無人駅での乗降客数はどうやって調べているのか?

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 道東に多いワンマン列車。無人駅と車掌さんのいない列車の組み合わせは、もはや札幌圏以外の普通列車では当然の風景である。
 
 無人駅からワンマン列車に乗る場合は、乗車時に発行機から整理券を受け取り、降車の際に駅の改札口で支払うか、整理券番号と運賃表示器の金額を見比べた上で、運転士に現金で運賃を支払って降りる。切符というものを持たないまま乗降するのである。
 
 こうした無人駅での乗降客数というのは、どのような方法で調べているのだろうか?かねてから疑問に思っていて、なんとなく「整理券」の発行数から割り出すのかなと考えていた。だが、これでは「降車客」の方はカウントできない。なぜならば、例えばA駅から360円区間の整理券を持って乗車しても、360円区間の駅が複数あったならば、どこで降りたものなのか後からではわからないからだ。
 
 通常、有人駅での乗降客数は定義があって、切符の販売数から算出する。乗車券、回数券、定期券それぞれに、乗降客数を計算するためのルールがあるのだ。だが、切符を発行しない無人駅での乗降客数はどのように計算しているのか?考えていてもわからないので、JR北海道の質問コーナーに質問してみた。その回答が以下である。
 
『当社では、社内で輸送計画を策定するために、各種イベントや帰省時期など季節的要素が少ない時期に、実際にワンマン列車のご利用状況調査を行っております。なお、ワンマン列車の運賃箱等からの調査は行っておりません。』
 
 少なからぬ衝撃が走った。これによると、「季節的要素の少ない時期に利用状況調査を実施している」、つまり、日頃の乗降客数は調べていない、ということだろう。
 
 一見それで良いんじゃないの?とも思える内容だが、私には疑問がある。この方法だとサンプル数がきわめて限られ、本当の利用実態は把握できていないように思うからだ。
 
 と言うのも、昨今公表されているJR北海道の路線別利用者数や駅の乗降客数の数値が、私の日頃からの実感とどうも異なる印象があるのである。いったいどうやって数値を出しているのだろうと思ったが、こういうことなのか。
 
 例えばこの方法だと、日頃から切符を販売している駅と、ワンマン列車しか停車しない無人駅とでは、年間利用者数のカウント方法が別になってしまう恐れは無いのだろうか?有人駅では切符の発行枚数から算出し、着実に乗降客数を増やしていけるのに、無人駅では限られたサンプリング期間の数値が全てになってしまうのだ。
 
 「そんなの、日頃から利用者数が少ない駅なら変わらないから問題ないではないか?」と言うなかれ。鉄道の生活利用はそんな単純ではない。
 
 私は日頃から根室本線の普通列車に比較的乗っている方だと思うが、こうしてしょっちゅう乗っていると、人々の利用には定形のパターンと非定形のパターンがあることが見えてくる。
 
 例えば雨の日。雨の日だけ汽車を利用する人と、雨の日は車で送ってもらっている人がいる。雨によって帰宅時間が変わってしまう人などの場合だろう。
 
 例えば帯広のスーパーが特売の日。釧路だとスーパーが駅から遠いと言って、帯広まで買い出しに行くご婦人がいる。
 
 例えば試合のあった日。いつもの区間を越えて、ジャージ姿の高校生が列車で帰ってくることがある。
 
 例えば呑み会の日。今日はお酒を飲むから帰りは(場合によっては行きも)列車でという労働者。
 
 そのほか、例えば私の博物館での行事で、観察会や見学会の場所まで列車で移動することがある。
 
 鉄道では、定期利用者に加えて、こうした非定期の利用が毎日状況に応じてそれぞれ交錯し、合わさって乗降客数になるのである。もちろん長距離の旅行者などもこれに加わることがあるだろう。
 
 ところが、こうした利用が、いまの方法では乗降客数に全く反映されていない事になるのである。これは道東の普通列車のように、もともと利用者数が少ない、言い換えれば1人の乗客の数字が存廃に与える影響が大きい路線では重大な問題ではないか。
 
 とても乱暴な言い方をすれば、ワンマン列車に整理券と現金でいくら乗車したところで、全くその駅の乗降客数には反映されないという事である。こ、これはあまりにも空しすぎる。そしてその数字だけで「路線や駅の価値」を測られては、地元はとても困るのである。
 
 とは言え、現実にそうした方法で「路線や駅の価値」を測っているのだとすれば、こちらもそれに合わせなくてはならない。すなわち、ワンマン列車への現金乗車は統計上は損な訳だから、とにかく切符を発券しなくてはならない。お出かけの際には、面倒でも有人駅での事前発券。博物館で行事をするときも、あらかじめ浦幌駅や音別駅で区間指定の乗車券を購入。これを心がけねばならない。うーん。
 
 

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2017年2月11日 (土)

今年も卒業論文大発表会を開催

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 今年も卒業論文大発表会「浦幌のヒグマこんなに調べました!」を開催した。9名の大学生、大学院生に浦幌まで足を運んでいただき、自分達の研究成果を地域や関係の方々の前で発表するもの。最後に全体講評として、酪農学園大学の佐藤喜和教授からコメントをもらう。
 大多数が酪農学園大学野生動物生態学研究室の学生で、今年はほかに帯広畜産大学の大学院生の方にもご登壇いただいた。会場には地元浦幌の農業者のほか、さまざまな市町村から狩猟者や林業者、研究者、行政関係者の方々にも足を運んでいただき、盛況のうちに終えることができた。
 
 地域にさまざまな研究者に来て頂く場をつくると共に、その研究者の成果を地元に直接フィードバックし、地域の人達に自分達の町が学術的にどんな貢献ができているのかを知ってもらうことが大きな目的である。今後も続けていきたい行事のひとつである。
 
 

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2017年2月10日 (金)

ひなまつりモードにはいる

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ボランティアさんの協力を得て、今年も常設展示室内に「ひな人形」を設置。今年は昨年とは異なる段飾りが2セット出ており、合計数も1セット多い。
そのほか、旧郷土博物館から降ろしてきた展示ケースを使って、ひなまつりのお菓子の展示コーナーもつくった。もっとも、本当にヒシの粉の入ったひし餅は入手できなかったが、仕方が無い。
 
 
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朝の尺別海岸を行く釧路行き2521D。
2月9日の尺別。
 
「尺別駅を勝手に支援する会」というサイトをつくり、今後、尺別関係は別に発信することにした。ほそぼそと駅のアピールをする。
https://twitter.com/SHAKUBETSU (ツイッター)
 

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2017年2月 6日 (月)

サイエンスコミュニケーションの課題

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 東京大学出版会の書評誌『UP』の新刊が届いた。さっそく中を開くと、東京大学大学院理学系研究科の塚谷裕一教授が「キュレーションプラットフォーム事業の閉鎖問題から見たサイエンスコミュニケーション」と題した小考を寄せられている。塚谷先生は植物学が専門で、著書の『スキマの植物図鑑』(中公新書)は私も愛読している。
 
 一読して、以前から漠然と抱いていた「サイエンスコミュニケーション」およびそれを推進する「サイエンスコミュニケーター」の養成課程への疑問はこれか、と実感した。
 
 先生も書かれているが、私も植物や鉄道に関する報道機関などからの問い合わせをよく受ける。博物館なので、業務時間中にそれを受けるのは当然の務めなのだが、仕事が終わったあとも休日も、携帯電話や電子メールに「今日の夕方までに回答をお願いします」という依頼が入ってくる事がよくある。
 自分の仕事(博物館の事業)に関することならばまだしも、そうでない事柄についても直近の締め切りを指定されて、文献を調べて回答しなければならない義務はあるだろうか?
 
 ただ、それでも、準職員とは言え、とりあえず「科学」の現場に労働者として身を置いている立場であればまだ良いと思う。問題は、これも塚谷先生が論考で指摘されているが、大量に養成されている「サイエンスコミュニケーター」なる者が、社会できちんとした対価を得られておらず、科学に対する専門知識を無償に近い形で社会へ提供し続け、社会もそれを当然と受け止めている昨今の風潮にある。
 
 北海道大学なども、サイエンスコミュニケーターやミュージアムマイスターといった、従来は聞かなかった「資格」なのか「肩書き」を学生に与える課程を設置し、向学心溢れる若者たちが門を叩いている。しかし、大学はそれらの「資格」を得た学生が、その「資格」を職業として(それをきちんと収入源として自立していける職業人・労働者として)社会へ送り出せる環境を整える努力をしているだろうか?私が見たところ、そのような様子は皆目みられない。
 
 きちんと職を得ている方には申し訳ないのだが、私が見ている限り、すなわち、社会に職業として成立していない「資格」を看板に、ただ学生を集める「広告」として「サイエンス」だの「ミュージアム」だのの文言を利用しているだけに見えるのである。
 
 同じ事は博物館の現場でも言える。いま私はだいぶ異なる環境になったが、いまでも多くの博物館で非正規雇用の学芸員を続ける仲間達がいる。博物館の専門職は「非正規雇用」で構わないという風潮が蔓延している。図書館はもっとひどい。
 
 いまの日本は、医療以外の専門知識に対価を払わない。それを当たり前の社会にしてきている気がする。その歪みの表れが、昨今のサイエンスコミュニケーションの劣化に結びついてきているのではないか?塚谷先生の論考もそのような意味で書かれているように思う。
 
 私たちは現場の人間として、いまどのような声を挙げ、行動をとるべきなのか?きちんと考えなくてはならない時期にあると言える。
 
 
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 出張に出ていたので、久しぶりの「今夜の尺別駅」。
 
 

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