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2016年11月21日 (月)

ミサで思い出した昔聞いたはなし

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 カトリック教会の暦「教会歴」は、待降節第1主日に始まり、その前週である「王であるキリスト」と呼ばれる主日で1年を終える。今年は11月20日が年間最終主日であった。
 
 神父様の話。まだ神学生だった頃、東京のカトリック病院の入院病棟で奉仕をされていたときの話だそうである。
 「今日は手強い方が入院されている」と言われて担当した患者は、北海道大学農学部の教授だったと言う。信仰は全く持っていなかった。
 だが、繰り返し世話をしていたある日、次のような事をその教授が話されたと言う。
 その病室からは十字架が見えたのだそうである。寝ていても見えるというから、病室の壁に掛けられていたのかもしれない。カトリックの十字架は、磔刑のイエスの像が付いてる。その十字架を何日も何日も見続けていてふと感じたのだろう。
 
「あの方〔磔刑のキリスト〕は裸ですね。自らを包み隠さず、弱さ辛さをさらけ出している」
「あの方は両手を広げておられますね。まるで何者をも包み込んでくれるような姿をしている」
「この方の前では、何も隠す事はできない。自分の思いを素直に打ち明けてしまえる、委ねることができる。そんな気がしますよ」
 この教授は最後まで無信仰だったようである。だが、信仰の無い教授が、実に信仰の本質を突いた言葉をぽつりと語っている。当時神学生だった神父にとって、その衝撃は大きかったと言う。
 
 似たような話を学生時代に聞いた事がある。酪農学園大学の学園礼拝に来られていたどこかの牧師さんの話だ。
 
 その牧師さんは刑務所の教誨師をされていた。その刑務所に、ケンカっぱやく、とうとう人を殺してしまったある犯罪者がいたが、何度も接するうちに更正され、社会に出ていったと言う。
 ところが、いちど犯罪を犯した人に対して社会は厳しい。なかなか仕事にもつけず、ようやく就けた職場でも、とてもひどい事をさんざん言われ続けたそうである。
 或る日、とうとう絶えかねて口論となり、よっぽどのところで相手を傷つけてしまうところをようやく我慢して逃げ出し、その牧師さんの教会へやって来たと言う。
 顛末を話すその方に牧師さんは「でも〔相手を傷つけず〕今度はよく我慢されましたね」と声をかけた。するとその人は、泣きながらこう答えたと言う。
「また同じ事をしてしまったら、イエスさんに申し訳がない」
 
 私はこの牧師さんの話を聞いて、それまでキリスト教に抱いていた疑念やわだかまりを脱し、「ああ、これが信仰というものなんだな」という事を理解したような気がした。信仰が人を救うということが、実際に世の中では起きているのだなと。
 
 神父さんの話と、それを聞いて思い出した学生時代の牧師さんの話。それらの話を聞いて信仰の本質を理解した気になっているけれども、少しも進歩していない自分の姿に、打ちのめされた気がした教会歴最終主日であった。
 
 

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