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2014年1月 9日 (木)

さらば千歳湯の日々

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 今年の年末年始はなかなか多忙であった。年末は移動展の進行と標本大整理や紀要原稿などが平行していたために館務が詰まっていて、正月休みはゆっくりしようと思っていたのだが、札幌時代に暮らしていた銭湯「千歳湯」の廃業・解体の知らせが入った。私は千歳湯の裏2階の貸間に間借りしていて、今も本だけ置かせてもらっていた。そこで、父方へ帰らねばならない数日以外に休みを延長し、本の整理と発送へ向かった。
 
 
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 年末、仕事を納めた翌日から行ってみると、立ち退き・解体の日程が思いの外はやい事を知った。そして、銭湯のさまざまな備品類などの廃棄処理に、人手が足りなく難渋している様子であった。「男手が無いんで、片付けがはかどらないんだ」と嘆くおばあさんの声を聞き、急遽、レンタカーでトラックを借りて、大型ゴミの処分を手伝う事にした。
 8日には、北大総合博物館で研究員をしている鳥本君に助っ人に加わってもらい、篠路の廃棄処分場をなんどか往復。天候にも幸いし、家具類などの大型ゴミを一気に片付ける事ができた。
 
 
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 千歳湯は、現在の山村さんの経営になったのは1961(昭和36)年。しかし、それ以前に2人の方が経営されており、銭湯そのものがこの地で創業したのはもっと古い歴史がある。北区北13条西3丁目のこの界隈は、かつては自動車工場や平屋の個人住宅、旅館が密集していたのだが、この7-8年ほどで次々と無くなり、一角に最後まで残ったのが千歳湯であった。
 付近の道営住宅には比較的最近まで風呂が無く、また近隣の住民や北大生、留学生に愛された銭湯だった。特に、北大病院や学生寮などが近い事もあり、北大との繋がりは濃かった。休憩室の長いすはもともと北大病院の待合室にあったものを廃品で頂いたものだった。その長いすも昨日、私の手で廃棄場へと輸送した。
 最近はレンガの煙突を目印に、マラソンの練習帰りに一風呂浴びて帰る人も多かったそうである。
 
 
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 千歳湯の目印として知られた、レンガ製の角煙突。札幌近郊の煉瓦かと思っていたのだが、山村さんが伝え聞いている話だと、なんと余市あたりに煉瓦工場があったそうで、そこから来たものらしい。
「あれを解体するのは大変だろうねえ」と笑っていたが、解体の際には煉瓦を拾いに行ってみたいものである。
 
 
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 銭湯の裏手に住居があり、山村さんはここで暮らしていた。屋根から落ちた雪ですぐに山が出来るが、ここには温排水を溜める水槽が埋め込まれており、冬には毎夜、蓋を開けて雪を落としていた。この水槽に落ちないように注意しながら脇を進むと、裏手に私の部屋へ通じる入口があった。
 
 
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 私が暮らしていた貸間への入口。右手が銭湯と大家さんの居住区で、1階で繋がっている。この狭い木の階段をなんど昇り降りした事か。本棚などを運んだり、思い本の束を抱えて降りる時、冬などは滑って転びそうになる事もしばしだった。
 
 
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 貸間への入口と千歳湯本体の裏側。千歳湯は数年前の台風で破損したため、正面外壁は大幅な改装をしたばかり。そのため、表から見ると新しそうに見えるが、裏から見ると建物の古さがよくわかる。風雪に耐え、札幌の現代史を見続けてきた建物である。
 
 
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 貸間の廊下。ここに3部屋があり、末期には私と木村さんというおばさん、張さんという留学生の3人が暮らしていた。張さんは前の貸間以来の付き合いで、経済学研究科で会計監査の研究をする大学院生だったが、一足先に母国へ帰られた。木村さんも付近に別のアパートを見つけ、既に退去されていた。
 
 廊下の突き当たりに共同の洗面所。写真には写っていないが、手前に共同の便所もあって、木村さんがいつもきれいに掃除されていた。張さんは、何か祝い事があると私たちや山村さんも呼んで、餃子をふるまってくれたりした。家族的な付き合いのある、温かい空間だった。
 
 この廊下で研究室の後輩がナメクジを踏んだ事があった。私は踏んだ事は無かったが、いろいろな生き物を目にする事もあった。ただ、ネズミは出なかった。野幌に暮らしていた頃はネズミに悩まされたが、不思議とここはネズミはいなかった。
 
 
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 私が千歳湯へ来たのは2006(平成18)年だったと思う。千歳湯の東隣には現在はマンションが建っているが、ここにはかつて通りに面して旅館があり、その裏手に木造2階建ての貸間「田中荘」があった。私が酪農学園時代から暮らしていた江別市大麻泉町のアパートを出て札幌へ移った時、北大生協を介して最初に住んだのは田中荘だった。ここは留学生を中心に千歳湯よりも多くの学生が暮らしていたのだが、大家の田中さんが亡くなり、家主が人の手に渡って、ほどなく解体の道を辿った。
 
 田中さんが亡くなってから一年ほど、小平さんという管理人さんが1階に暮らした。私達とさほど歳も変わらぬ女性で、2階の居候達とも仲良くしていた。秋は玄関前に七輪を出してサンマを焼いたりした。残念ながら田中さん亡き後の家主さんは田中荘の継続を望まず、建物が古くて消防からも注意が出ていた事から、小平さんの管理時代は短かった。
 
 彼女は華道とか習字をされていて、廊下の張り紙などは半紙に筆書きの見事なものだった。田中荘からは私と張さんが千歳湯へ移り住んだので、なんとなく田中荘の面影が千歳湯へ移った気がした。記念に小平さんの張り紙も千歳湯へ1枚移した。いまはマンションが建って跡形も無い田中荘を記憶する唯一の遺物かもしれない。
 
 
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 私の部屋は南に面していたので、窓からは秀岳荘(中央左の明るく光る看板)や駅の高層ビルが見えた。右に見える斜めの通りは地下鉄南北線が走る通りだ。今は何も無いこの窓下の空間に、かつては個人住宅があった。やはり亡くなられて、程なく解体され、更地にされた。今はカレー屋さんピカンテの駐車場になっている。千歳湯の立ち退きによって、この空間を含む3丁目の西側一帯が一気に開発される予定で、間もなくこの景観も大きく変化するだろう。
 
 
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 すっかり物の無くなったかつての私の部屋。この畳に横になると不思議に落ち着き、夏は窓を全開にして麦酒を飲んだりした。本が積まれてより狭くなったこの空間で、研究室の仲間と鍋をしたり、友人が泊まりに来たりした事もあった。ガランとした空間を眺めていると、いろいろな思い出が蘇ってくる。
 
 「○○屋さんも無くなったし、○○さんも引っ越すらしい。風呂釜も漏るし建物も古くなってあちこち修繕も大変で、昨年、「〔地主から〕そろそろどうだろうか?」と言われた際、うんと返事してしまったんだ。それからあれよあれよと話が進んで、2月に解体だ。片付けが間に合うか、そればかりが心配だったが、今回は助かりました」
 
 私は山村さんには大恩があり、こんな事では恩義を返しきれず、かえって恐縮であった。昔語りをしながら名残を惜しみつつ、最後のゴミを処理して、雪の激しくなった札幌を跡に帯広への帰途についた。山村さんは今後、娘さんの家へ移って一緒に暮らすのだと言う。
 
 
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 学芸員としては千歳湯を記録するものを残したい。そこで、いくつかの品を頂いてきた。左は最後の入浴料金表。色が褪せて金額が見にくいが、2008(平成20)年に420円となってから変わっていない。この前の年まで、何年か毎年のように料金が上がった時があり、こんな事では益々客足が遠のくのではないか?と危惧していた。
 
 ちなみに山村さんが千歳湯を引き受けた1961(昭和36)年は、17円だったと言う。
「今も覚えてるよ。そこの電車〔札幌市電の鉄北線〕が15円だったよ」
 今、市電の運賃は170円。均一料金とは言え、銭湯入浴料金との差はずいぶんと開いたなあと思う。
 
 鉄道は大人と小児の区別があるが、銭湯は大人の下に中人と小人の区分がある。「大人」は「おとな」と読むと思うのだが、「中人」「小人」は何と読むべきなのだろう?いつも疑問だったのだが、とうとう最後まで聞かずじまいだった。
 
 真ん中は銭湯特有の木製下足札とケロリンの洗面器。腰掛け。札幌市から指定されていた「協力井戸」の看板。いずれも日常的に見慣れていたものだが、「千歳湯」の文字が入ったものをひとつ欲しいと思い、右端の駐車禁止の看板を頂いた。この他、浴室に掲げられていた広告看板数点も、質屋など時代を反映する商店名である事から頂いてきた。当面、個人で所有するが、いつか札幌の適した博物館へ納め、地域の歴史資料として活用される事を願いたい。
 
 これが本当のお別れだ。さらば千歳湯の日々。
 
 

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