根室本線は現在、厚内を出るとぐるっと内陸へ入り、上厚内、常豊信号所を経て浦幌へ。新吉野の手前でカクンと向きを変えて豊頃を目指す。
しかし、明治36年にこのルートで開業する以前、計画段階では、厚内から海岸沿いを直進。旧十勝川(現、浦幌十勝川)河口の十勝太を経由して新吉野方向へ向かう経路が計画されていた。北海道庁が発行した明治30年の「十勝國殖民地区画図」には、「豫定鉄道敷地」としてこのルートが描き込まれている。

明治30年発行の初判。「豫定鉄道敷地」のラインが、厚内方向から海岸沿いをやってきて十勝太を通り、北上して下頃辺(現在の新吉野)方向へ向かっている。
これは同じ図の改訂版(改訂年がはっきりしないが、明治35年判らしい)。「豫定 鉄道敷地」は同じだが、十勝太の区画割りがより細かくなっている。道庁は鉄道がこの地を通る事を前提に、十勝太に都市を形成する計画を持っていたと言われる。大津から人を移住させる「十勝太河口都市」計画で、そのために土地の区割りを先行して実施した。
諸説あるが、どうも大津から十勝太への人の移転がうまくいかなかった事が、十勝太に鉄道を通す事を断念し、現在の浦幌ルートが選択される大きな要因だったらしい。一説に「大津沿岸の漁民が漁への影響を心配して汽車が通る事に反対した」というものがあり、近年出版された写真集などにも同様の記述が見えるが、これはいわゆる「鉄道忌避伝説」と思われる。
十勝太には鉄道が通らなかったが、このときの区割りにもとづいた道路区画を今も見る事ができる。細かい場所を検証中だが、この写真の付近もそのようである。6月下旬の郷土バス見学会で巡る予定。現在、資料を鋭意準備中です。
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