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2013年1月24日 (木)

晩成社三幹部と宣教師の関係を整理してみた

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 今日は休み。帯広市図書館に籠もって原稿を書いていたのだが、息抜きにふと、前から気になっていた事を少し調べてみた。それは晩成社の三幹部と横浜・東京の宣教師たちの関係である。以下の記述は私が今日一日勉強しながら考えた戯言で、特に後半は史料検証などをしていない想像が多分に含まれている事をお断りしておく。
 
 三幹部の一人、鈴木銃太郎は、父親だった鈴木親長が出身の上田藩の藩主、松平忠礼家に影響を受けて受洗する際、一緒に洗礼を受ける。受洗したのは東京の築地新栄橋教会(もとの東京公会。後の新栄教会)で、洗礼を授けたのはアメリカ長老教会派遣の宣教師ディビット・タムソン。これはほぼ間違いない。
 
 問題はその後。一般には1875年に横浜へ移住し、宣教師ブラウンの神学校「ブラウン塾」へ入ったとされる。ところが、文献によっては依田勉三や渡辺勝も通った「ワッデル塾」へも通った事になっているのである。
 
 ブラウン塾は1873年から神奈川県横浜に開かれたS.R.ブラウンによる神学校。1877年に東京築地に東京一致神学校が開設されると、そちらへ合流して解消した。この際、銃太郎も東京一致神学校へ移り、渡辺勝と出会う事になる。これはほぼ間違い無いと思うのだが、問題は『帯広市史』の中に「〔鈴木銃太郎は〕明治八年、横浜に移り、ワッデル塾からブラウン塾に代わり・・・」との記述がある点である。
 
 上記の図のように、東京芝にアイルランド長老教会派遣の宣教師ヒュー・ワッデルが私塾を開いたのは1876-78年のわずか2年に過ぎない。銃太郎が1875年に東京から横浜へ移住した際には、まだワッデル塾は開かれていない(ワッデル自身は既に1874年から東京に居住し、築地大学校の教師をしていた)。仮に市史の記述のとおりだとすれば、銃太郎は1875年に横浜のブラウン塾へ入り、その後東京のワッデル塾へ移り、またブラウン塾へ戻って、そのまま東京一致神学校へ、という流れになるが、あまりにも不自然ではないだろうか?
 
 実は市史以外にも鈴木銃太郎がワッデル塾に通っていた、という記述はさまざまな文献で散見される。「ワッデル塾」と「ブラウン塾」を、そもそも混同してしまっているとしか考えられない本もある。一部の本には「依田勉三、渡辺勝、鈴木銃太郎の三名はワッデル塾で出会った」との記述があるが、現在これは誤りで、勉三と勝、勝と銃太郎は、それぞれ別の学校で別の時に出会っているというのが定説である。
 
 ただし、だ。この定説にも若干疑問がある。依田勉三がワッデル塾へ通い始めた年代がよくわからない。文献には「明治三年(1870年)」などという記述があるが、そんな年にはまだワッデルは横浜へ来ていない。という事は勝と同じ1876年にワッデル塾へ入ったのだろうか?もしくは塾が開設される前(1974年以降)、既にワッデル家に住み込んでいたのだろうか?
 また、銃太郎が東京一致神学校へ入った年だが、1878(明治11)年という記述もある。だとすると、ブラウン塾が閉校してから1年間どこにいたんだ?という話になる。この1年をワッデル塾に下宿して過ごしたのか?そしてワッデル塾の閉校に併せて銃太郎も東京一致神学校へ進んだのか?そうすると、東京一致神学校はブラウン塾の流れを汲む神学校なので、「ワッデル塾からブラウン塾へ代わり・・・」という市史の記述も矛盾しなくなる。
 
 まあ、専門分野ではないから気楽に勝手な想像をしているが、興味深いので、日本史担当の学芸員に協力してもらって、銃太郎の日記など史料を確認してみたい。また、明治初期の横浜や東京のキリスト教会との関わりが面白いので、その辺りで残されている史料が何か無いか?なども細々と調べてみたいと思っている。
 
 
*市史の記述問題については、根本英司,2005.『帯広市史』を読む会について.トカプチ, No.17: 88-94.を参照した。
 

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