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2013年1月26日 (土)

今度は依田勉三とワッデル塾に疑問が

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 前回に続き、晩成社三幹部と宣教師達の関係。あれからまた少し調べ、鈴木銃太郎については概ねわかった。やはり鈴木銃太郎がワッデル塾に通っていたとされる文献は誤りである。彼は東京から横浜へ移った際に、教会は築地新栄橋教会から横浜公会(今の横浜海岸通教会)へ移り、ブラウン塾へ通っている。そのブラウン塾の隣には共立学園があり、妹のカネ(後に渡辺勝と結婚する)が通う事になる。
 
 ただ、銃太郎が当時ワッデル塾を訪ねた可能性はある。この当時、鈴木銃太郎はキリスト教熱がかなり高まっていた時期であり、数少ない宣教師を訪ね歩いた可能性は否定できない。それがもし1876年だったら、もしかしたら渡辺勝、依田勉三ともワッデル塾で出会っていたかも知れない。
 
 その1876年が非常に重要な年である事に気づいた。なんでも、渡辺勝の日記には、1876年1月にワッデル塾で依田勉三に出会ったとの記述があるらしい(原本ではないが翻刻本で確認した)。すなわち、この時すでに依田勉三はワッデルと共に居た事になるのだが、今度は依田勉三の挙動に疑問点が出てきた。
 
 実は前回の図で、依田勉三はまずワッデル塾へ入り、その後慶應義塾へ通ったという流れで示していた。しかしこれは誤りらしい。なぜなら慶應義塾に今も依田勉三の入学・退学に関する記録が残っていて、それによると勉三の在学期間は1874年8月31日〜1876年1月31日だからである。
 
 ワッデルが日本へ来たのは1874年6月10日の事である。東京築地居留地18番に住みつつ、築地大学校の教師を務めていた。文献によると1876年に芝西久保葺手町に居を移し、私塾を開設。それを2年間続け、1878年にワッデル塾は西久保教会へと発展する。
 
 一方、依田勉三だが、先の学籍記録から、ワッデルが日本へ来た2ヶ月後に慶應義塾へ入っている。この2ヵ月の間に、私塾を開く前のワッデルの家に下宿し、慶應義塾へ通ったというのは、いささか不自然ではないだろうか?
 
 ただ、当館の日本史担当であるO学芸調査員によると、依田勉三の生家は当時幅広い人脈のある家系で、実際、晩成社を立ち上げてからの依田勉三は、この人脈をいろいろと活用しているそうである。したがって、生家を経由してワッデルの紹介を受けるくらいの事はしたかもしれない。検証が必要だ。
 
 
 だが、大事な事がひとつある。それは、さまざまな文献に見られる「〔勉三は〕東京へ出てきてワッデル塾へ入り、その後(ワッデル塾から)慶應義塾へ通った」という記述は正しくないという事である。むしろ順序から言えば、慶應義塾へ通った事の方が先であろう。勉三は1876年1月31日には慶應義塾を退学している。ワッデルの芝移転はこの年だから、「ワッデル塾から慶應義塾へ通った」というのは一ヶ月程度という事になり、しかもこの年の9月には静岡県の生家へ帰ってしまう(この時、渡辺勝も伊豆まで同伴。勉三にお金を借りて東京へ戻っている)。
 
 一方、依田勉三がワッデル宅に住み込んでいた時期がある事は間違いない。では、それはいつからなのか?塾開設前か直後か?これを知る必要があるが、いまのところ確証のある資料を見ていない。渡辺勝の日記に1876年1月にワッデル塾での勉三の記述がある事から、これより以前という事になる。
 
 これがワッデルの芝移転後であるとすれば、1875年末頃だと思われる。もうひとつの可能性は1874年。日本に来た直後のワッデルを生家の人脈を頼りに訪ね、住み込んでしまうという推察である。これだと、依田勉三は芝へ移ってからの私塾開設以前、築地時代のワッデル家に入っていらしい、という事である。
 
 いずれにしろ、ワッデルと依田勉三との出会いの時期がポイントである。ブラウン塾に比べると残っている記録の少なそうなワッデル塾なのだが、いろいろと調べてみたい内容ではある。
 
 
  すなわち、今後確認すべき課題は・・・
 
1.ワッデル塾は西久保教会、葺手町教会と発展し、日本基督一致教会へ加入しているので、この流れを引く改革・長老派教会の資料を渉猟し、ワッデルの来日から依田勉三の滞在期間を割り出す。
 
2.慶應義塾に保存されている学籍簿の現物を確認し、勉三の当時の居住地が記されていないか確認する。
 
3.ワッデルを派遣していたスコットランド一致長老教会における、ワッデル自身の資料に依田勉三の記述が無いかさがす。
 
 1はキリスト者つながりで関係する教会に協力を求めれば出来るだろう。2も今度横浜へ帰った時にでも調べに行ける。3は大学の研究者などと共同して、研究費を獲得してからでないと厳しい気がする。誰か良い人を探そう。
 
 うーん、気晴らしのつもりだったが、なんだかだんだん深くなってきたな。これだから地域博物館の学芸員は面白い。難点は、大学の先生と違って、自分の裁量で使える研究費や旅費などのお金が全く無く、全部自費で賄わなければならないという事だが。
 
 
 
 

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コメント

御教示ありがとうございます。当館にも備忘があり、ちょうど備忘を研究している歴史担当の学芸員が居り、ラベルについても昨年いろいろと調査していました。今、大学の方へ出ておりまして、戻りましたらお伝えしたいと思います。今後とも御教示の程、よろしくお願いいたします。

投稿: 持田 誠 | 2013年3月12日 (火) 07時34分

持田 様

現在、私が最も関心があり解明したいことは、明治39年、晩成牧場でバター生産をしたときの赤いラベル缶。あの缶の図柄、デザインはだれに依頼して生まれたものか!ということです。勉三の『備忙録』という日誌が当家に残っておりましたので、伊豆学研究会の橋本敬之先生とその経過記述がないか解読しているところです。英文調ですので、函館かワッデルの人脈がキーポイントではないかと!

投稿: 依田博之 | 2013年3月12日 (火) 00時42分

依田様 コメントをありがとうございます。明治学院大学は、日本のプロテンスタント史を振り返る上でも忘れられない私学ですね。

投稿: 持田 誠 | 2013年3月 6日 (水) 12時41分

始めまして!私も先祖のこと、折に触れ確かめる事、大です。 会津藩最期の家老 西郷頼母の姉の子息は、明治学院初代院長井深梶之助です。ワッデルは、この明学で教授をしました。創立者ヘボンの招きか。 依田家は頼母を伊豆松崎に招き、勉三をたいへん可愛がってくれたとのこと。
私の祖父(薫平)も、その縁か?明学に通いました。 ご参考にして下さい。

投稿: 依田博之 | 2013年3月 1日 (金) 17時32分

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