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2013年1月

2013年1月31日 (木)

ヤクルト訪問販売50年

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 今日は帯広百年記念館の臨時職員の方が退職される日だった。同時に、いつも百年記念館へ配達に来てくれていたヤクルトさんも最後の日だった。
 
 ヤクルトの訪問販売は、ちょうど50年前の1963(昭和38)年に「婦人販売店制度」として始まったとされる。「家族の健康を守る主婦こそが、ヤクルトをお届けするのにぴったりなのではないか」として、地方の販売店から始まったのだそうだ。よく誤解されているが、ヤクルトさんの多くはパート従業員ではなく個人事業主だそうで、独特のシステムはすっかり定着し、各地でその光景を見る事ができる。
 
 私も北大総合博物館時代から、ヤクルトさんのお世話になっている。日曜日を除き、毎日配達してくれるヤクルト。毎日1本お腹に1本と言うが、続けていると、たしかに無い日は寂しい感じがする。
 
 かねがね、このヤクルト訪問販売の光景も、きちんと記録として写真に撮っておくべきだろうと考えていた。写真は今日の写真ではなく数日前の撮影。いつものヤクルトさん、今までありがとうございました。臨職の方も。明日からはどちらも新しい人が着任し、私たちを支えて下さる。
 
 
 
 

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2013年1月30日 (水)

唐箕・夕焼け・校正・原稿・・・

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 展示解説書の色校正があがってきて、最初の原稿に載っていた唐箕の写真を急遽変更することに。うーん、時間の無い時に限っていろいろと仕事が入るものである。何か唐箕の写っている写真が無いか探したが適当なものが見つからず、それなら撮りに行ってこようと帯広市郊外の富士町近辺まで出かける。帰りはすっかり夕暮れ時になり、日高山脈に夕焼けが映えて美しかった。
 
 
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 まあ、しかし来てみるとやはり現物を見るのは面白い。被写体の唐箕は現役で活用されているもので、どっしりとしたなかなか良いもの。いろいろな銘記もあり、詳しく調べたくなる気持ちをグッと押さえる。今これに手を付けたら大変だからなあ。
 
 
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 と思いつつ、いちおう本体に書かれている銘記をひととおり写してくる。「火山式」「マル武」が気になるところである。唐箕は農具の中でも結構研究されていて、以前には横浜市歴史博物館で企画展を見て感心した事がある。国立歴史民俗資料館などでも、唐箕の形態分類に関する論文が出ていたように思う。少し落ち着いたら、帯広百年記念館が所蔵する唐箕についても「同定」を試みたい。
 
 
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 帰ってから『北方山草』の初校ゲラに朱を入れ、戻す。今日中に予定していた紀要原稿の仕上げは夜仕事になってしまい、23時頃によやくメドが付いた。結局、今日やろうと思っていた音更移動展の準備は明日になった。積み残しの多い人生が続く・・・
 
 
 
 

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2013年1月26日 (土)

今度は依田勉三とワッデル塾に疑問が

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 前回に続き、晩成社三幹部と宣教師達の関係。あれからまた少し調べ、鈴木銃太郎については概ねわかった。やはり鈴木銃太郎がワッデル塾に通っていたとされる文献は誤りである。彼は東京から横浜へ移った際に、教会は築地新栄橋教会から横浜公会(今の横浜海岸通教会)へ移り、ブラウン塾へ通っている。そのブラウン塾の隣には共立学園があり、妹のカネ(後に渡辺勝と結婚する)が通う事になる。
 
 ただ、銃太郎が当時ワッデル塾を訪ねた可能性はある。この当時、鈴木銃太郎はキリスト教熱がかなり高まっていた時期であり、数少ない宣教師を訪ね歩いた可能性は否定できない。それがもし1876年だったら、もしかしたら渡辺勝、依田勉三ともワッデル塾で出会っていたかも知れない。
 
 その1876年が非常に重要な年である事に気づいた。なんでも、渡辺勝の日記には、1876年1月にワッデル塾で依田勉三に出会ったとの記述があるらしい(原本ではないが翻刻本で確認した)。すなわち、この時すでに依田勉三はワッデルと共に居た事になるのだが、今度は依田勉三の挙動に疑問点が出てきた。
 
 実は前回の図で、依田勉三はまずワッデル塾へ入り、その後慶應義塾へ通ったという流れで示していた。しかしこれは誤りらしい。なぜなら慶應義塾に今も依田勉三の入学・退学に関する記録が残っていて、それによると勉三の在学期間は1874年8月31日〜1876年1月31日だからである。
 
 ワッデルが日本へ来たのは1874年6月10日の事である。東京築地居留地18番に住みつつ、築地大学校の教師を務めていた。文献によると1876年に芝西久保葺手町に居を移し、私塾を開設。それを2年間続け、1878年にワッデル塾は西久保教会へと発展する。
 
 一方、依田勉三だが、先の学籍記録から、ワッデルが日本へ来た2ヶ月後に慶應義塾へ入っている。この2ヵ月の間に、私塾を開く前のワッデルの家に下宿し、慶應義塾へ通ったというのは、いささか不自然ではないだろうか?
 
 ただ、当館の日本史担当であるO学芸調査員によると、依田勉三の生家は当時幅広い人脈のある家系で、実際、晩成社を立ち上げてからの依田勉三は、この人脈をいろいろと活用しているそうである。したがって、生家を経由してワッデルの紹介を受けるくらいの事はしたかもしれない。検証が必要だ。
 
 
 だが、大事な事がひとつある。それは、さまざまな文献に見られる「〔勉三は〕東京へ出てきてワッデル塾へ入り、その後(ワッデル塾から)慶應義塾へ通った」という記述は正しくないという事である。むしろ順序から言えば、慶應義塾へ通った事の方が先であろう。勉三は1876年1月31日には慶應義塾を退学している。ワッデルの芝移転はこの年だから、「ワッデル塾から慶應義塾へ通った」というのは一ヶ月程度という事になり、しかもこの年の9月には静岡県の生家へ帰ってしまう(この時、渡辺勝も伊豆まで同伴。勉三にお金を借りて東京へ戻っている)。
 
 一方、依田勉三がワッデル宅に住み込んでいた時期がある事は間違いない。では、それはいつからなのか?塾開設前か直後か?これを知る必要があるが、いまのところ確証のある資料を見ていない。渡辺勝の日記に1876年1月にワッデル塾での勉三の記述がある事から、これより以前という事になる。
 
 これがワッデルの芝移転後であるとすれば、1875年末頃だと思われる。もうひとつの可能性は1874年。日本に来た直後のワッデルを生家の人脈を頼りに訪ね、住み込んでしまうという推察である。これだと、依田勉三は芝へ移ってからの私塾開設以前、築地時代のワッデル家に入っていらしい、という事である。
 
 いずれにしろ、ワッデルと依田勉三との出会いの時期がポイントである。ブラウン塾に比べると残っている記録の少なそうなワッデル塾なのだが、いろいろと調べてみたい内容ではある。
 
 
  すなわち、今後確認すべき課題は・・・
 
1.ワッデル塾は西久保教会、葺手町教会と発展し、日本基督一致教会へ加入しているので、この流れを引く改革・長老派教会の資料を渉猟し、ワッデルの来日から依田勉三の滞在期間を割り出す。
 
2.慶應義塾に保存されている学籍簿の現物を確認し、勉三の当時の居住地が記されていないか確認する。
 
3.ワッデルを派遣していたスコットランド一致長老教会における、ワッデル自身の資料に依田勉三の記述が無いかさがす。
 
 1はキリスト者つながりで関係する教会に協力を求めれば出来るだろう。2も今度横浜へ帰った時にでも調べに行ける。3は大学の研究者などと共同して、研究費を獲得してからでないと厳しい気がする。誰か良い人を探そう。
 
 うーん、気晴らしのつもりだったが、なんだかだんだん深くなってきたな。これだから地域博物館の学芸員は面白い。難点は、大学の先生と違って、自分の裁量で使える研究費や旅費などのお金が全く無く、全部自費で賄わなければならないという事だが。
 
 
 
 

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2013年1月24日 (木)

晩成社三幹部と宣教師の関係を整理してみた

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 今日は休み。帯広市図書館に籠もって原稿を書いていたのだが、息抜きにふと、前から気になっていた事を少し調べてみた。それは晩成社の三幹部と横浜・東京の宣教師たちの関係である。以下の記述は私が今日一日勉強しながら考えた戯言で、特に後半は史料検証などをしていない想像が多分に含まれている事をお断りしておく。
 
 三幹部の一人、鈴木銃太郎は、父親だった鈴木親長が出身の上田藩の藩主、松平忠礼家に影響を受けて受洗する際、一緒に洗礼を受ける。受洗したのは東京の築地新栄橋教会(もとの東京公会。後の新栄教会)で、洗礼を授けたのはアメリカ長老教会派遣の宣教師ディビット・タムソン。これはほぼ間違いない。
 
 問題はその後。一般には1875年に横浜へ移住し、宣教師ブラウンの神学校「ブラウン塾」へ入ったとされる。ところが、文献によっては依田勉三や渡辺勝も通った「ワッデル塾」へも通った事になっているのである。
 
 ブラウン塾は1873年から神奈川県横浜に開かれたS.R.ブラウンによる神学校。1877年に東京築地に東京一致神学校が開設されると、そちらへ合流して解消した。この際、銃太郎も東京一致神学校へ移り、渡辺勝と出会う事になる。これはほぼ間違い無いと思うのだが、問題は『帯広市史』の中に「〔鈴木銃太郎は〕明治八年、横浜に移り、ワッデル塾からブラウン塾に代わり・・・」との記述がある点である。
 
 上記の図のように、東京芝にアイルランド長老教会派遣の宣教師ヒュー・ワッデルが私塾を開いたのは1876-78年のわずか2年に過ぎない。銃太郎が1875年に東京から横浜へ移住した際には、まだワッデル塾は開かれていない(ワッデル自身は既に1874年から東京に居住し、築地大学校の教師をしていた)。仮に市史の記述のとおりだとすれば、銃太郎は1875年に横浜のブラウン塾へ入り、その後東京のワッデル塾へ移り、またブラウン塾へ戻って、そのまま東京一致神学校へ、という流れになるが、あまりにも不自然ではないだろうか?
 
 実は市史以外にも鈴木銃太郎がワッデル塾に通っていた、という記述はさまざまな文献で散見される。「ワッデル塾」と「ブラウン塾」を、そもそも混同してしまっているとしか考えられない本もある。一部の本には「依田勉三、渡辺勝、鈴木銃太郎の三名はワッデル塾で出会った」との記述があるが、現在これは誤りで、勉三と勝、勝と銃太郎は、それぞれ別の学校で別の時に出会っているというのが定説である。
 
 ただし、だ。この定説にも若干疑問がある。依田勉三がワッデル塾へ通い始めた年代がよくわからない。文献には「明治三年(1870年)」などという記述があるが、そんな年にはまだワッデルは横浜へ来ていない。という事は勝と同じ1876年にワッデル塾へ入ったのだろうか?もしくは塾が開設される前(1974年以降)、既にワッデル家に住み込んでいたのだろうか?
 また、銃太郎が東京一致神学校へ入った年だが、1878(明治11)年という記述もある。だとすると、ブラウン塾が閉校してから1年間どこにいたんだ?という話になる。この1年をワッデル塾に下宿して過ごしたのか?そしてワッデル塾の閉校に併せて銃太郎も東京一致神学校へ進んだのか?そうすると、東京一致神学校はブラウン塾の流れを汲む神学校なので、「ワッデル塾からブラウン塾へ代わり・・・」という市史の記述も矛盾しなくなる。
 
 まあ、専門分野ではないから気楽に勝手な想像をしているが、興味深いので、日本史担当の学芸員に協力してもらって、銃太郎の日記など史料を確認してみたい。また、明治初期の横浜や東京のキリスト教会との関わりが面白いので、その辺りで残されている史料が何か無いか?なども細々と調べてみたいと思っている。
 
 
*市史の記述問題については、根本英司,2005.『帯広市史』を読む会について.トカプチ, No.17: 88-94.を参照した。
 

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2013年1月23日 (水)

南極の氷が来た

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 今年も南極観測船しらせを運航する自衛隊から南極の氷が贈呈され、当館のロビーで展示された。贈呈式で目録と氷が手渡される。
 
 
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 さっそく皆で氷を触る。そして長い棒筒を当てて音を聞く。何万年も氷の中に閉じ込められていた南極の空気がはじける音が聞こえるのだ。週末の氷まつりでは、今年もたくさんの人達が耳をあて、太古の空気が弾ける音に思いを馳せる事だろう。
 
 
 

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2013年1月22日 (火)

中札内村で見つけた団地の看板

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 今日は中札内村で開催してきた移動展の撤収。短い期間だったが、展示に加えて関連事業もさせて頂き、感謝だった。私は酪農学園大学時代、中札内村の防風林でスズランの調査をしていた事がある。何度となく通っていた村なのに、まだその成果を論文に出来ていない。これはいけない事で、ずっと村に対して借りがあるなあと感じている。早く論文にしなくてはなあ。
 
 
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 ところで、学生時代から、村の大通にこの看板が出ていて、とても気になっていた。そこで今回、帰り道にちょっと立ち寄ってみた。
 
 
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 雪に埋もれた鉄道記念公園。広尾線中札内駅の跡地なのであろう。線路には転轍機も見えるし、ホームもあるが、なぜか旅客車は無く、ワム80000形有蓋車が2量保存されていた。腕木式信号機がワムの前後に2本建っているのが貴重だ。
 
 
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 2両のワム80000のうち、1両はなんとも思い切った保存のされ方である。一瞬びっくりしてしまったが、公園としての機能を考えるとこういう活用もありなのかもしれない。客車でなく貨車をこうして休憩スペースにする方法もあるんだなあと思った。なお、2両とも車両番号などの標記は一切残っていなかった。
 
 
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 公園は雪深く、車両には近づけなかった。が、今回の驚きは公園の外にあった。鉄道記念公園の隣に町営住宅と思われる集合住宅が3棟建っていた。そしてその建物には・・・。
 
 
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 なんと「鉄道」とある。一瞬、鉄道官舎か?と思ったが、そんなはずはない。恐らく町営住宅だろう。しかし、自分のうちが「鉄道1」とか名付けられているのは楽しいではないか。
 しかもイラスト入り。幸福交通公園に保存されている首都圏色のキハ22が、けっこうリアルに描かれている。傍らにいる黄色い鳥は、中札内村のシンボル「ピータン」だが、きちんと鉄道制帽を被っているのも面白い。
 
 「中札内村、あなどれない村だ」と、しきりに感心して帰ってきた。
 
 

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2013年1月21日 (月)

釧路港文館で雪あかりの路

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 21日(月)、私用で釧路へ行く。折しも予定していたスーパーおおぞら1号が、新札幌付近でブレーキ障害の為に運行をとりやめ。次の3号で向かった。札幌から釧路へ向かう人達は大変だったろう。
 写真は釧路駅に到着したスーパーおおぞら3号。隣接するホームには、接続する釧網本線、根室本線の普通列車が、特急の到着を待っていた。
 
 
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 釧路駅は北海道最後の「民衆駅」と言われている。古い駅だが、長距離列車の停まるホームは幅が広く、「自由席」の立て札と共に客扱いを待つ乗客の列が並ぶ。長距離列車の発着駅として、往時の風格を感じさせるホームだなといつも思う。
 ただ、スーパーおおぞら1号の運休で、折り返しとなる8号も運休となっており、駅構内は2本分の列車の乗客で溢れかえっていた。待たされた人々は大変だったろうと思う。そしてこれから札幌まで延々と混雑する汽車の旅となる。本当におつかれさまです。
 
 
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 さて、夕方から幣舞橋近くに建つ港文館へ行く。元釧路新聞社の社屋を復元(というか再現?)した建物で、中は石川啄木の資料館になっている。今日は「雪あかりの路」が開催されていた。
 この港文館、実は北海道で唯一、東日本大震災の被害を受けた資料館である。当時、道内の博物館は被害無しと思っていたのだが、かなり経過してから、釧路の港文館が津波の影響を受けたと知った。来てみればなるほど、幣舞橋のたもとにあり、という事は河口の岸壁にある訳で、なるほど津波が来たらひとたまりも無さそうな場所だった。
 
 
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 「雪あかりの路」は、同じく石川啄木ゆかりの地である小樽で数年前から取り組まれている行事である。今頃向こうも準備に大忙しの事だろう。釧路では今年初めての開催らしい。時間が無く南大通の方まで行けなかったが、市民主体の小さなイベントで、かえってそれが良い空気を生んでいると思う。近年、小樽の方は少し大きくなり過ぎた感があるが、「釧路雪あかり」も小樽のように、これから長く続けていって欲しい。 
 

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中札内村で移動展関連講座

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 20日(土)は中札内村図書館で開催中の移動展「博物館はなぜ標本を集めるのか?」の関連講座を同図書館で開催。ミニ百年記念館と講演の2つを連続で開催した。子供向け講座の「ミニ百年記念館」を移動展で開催するのは、今日の中札内村で最後となる。
 
 
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 ミニ百年記念館も講演も、図書館内にある「おはなしルーム」で開催した。小さく仕切られた部屋で絨毯が敷いてあり、日頃は親子で絵本を読んだり、読み聞かせをしたりするのに使われていると言う。工夫を凝らした良い空間で、落ち着いて開催する事ができたと思う。
 
 

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2013年1月19日 (土)

郵便局ポスター「ポストのある風景」

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 郵便局にお勤めの博物館ボランティアの方から頂いたカレンダー「ポストのある風景」。表紙が素敵で、しばらくはめくらずに表紙のまま壁にかけておく事にする。
 
 今朝は自動車の片輪がパンク。昨晩、何かを踏んづけてしまったらしい。朝からタイヤ交換をして、音更町の図書館へ移動展の関係で行く。昨年に私の博物館教育論講義を受講していた学生が、司書として働いているのに会い、びっくり。嬉しいものですね。
 
 帰りに図書館近くの蕎麦屋「桔梗」さんで蕎麦を食べたら美味しかった。上士幌町の「牡丹そば」を使っているそうだが、「キタワセ」主流の中で、いまどき「牡丹そば」は珍しいのではないだろうか?うっかり蕎麦つゆを零してしまい、左腕が蕎麦つゆ臭くなってしまったのは失敗。
 
 

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2013年1月18日 (金)

音更町図書館を知る

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 移動展「博物館はなぜ標本を集めるのか?」は、現在、中札内村と豊頃町で開催中。そして来月はいよいよ最終地の音更町で開催予定である。今日は会場となる音更町図書館へ下見に行った。
 
 
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 「えーと・・・音更町の図書館ってどこだっけ?」
 
 失礼な話だが、そう言えば音更町の図書館の場所を知らなかった。隣町なのに、しかも音更町の帯広大谷短期大学には毎週講義で通っているにも関わらず、全く記憶に無かった。そこで地図で場所を確認して行ってみると、予想以上に立派な建物でびっくりした。
 
 
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 担当のKさんが案内して下さり、展示箇所と講演会の部屋と、それぞれを見て回った。展示会場は、これも想像以上に広い。パネルもたくさん。ガラスケースも3台。これは本別町、浦幌町以来の規模で展示ができそうである。という事は準備もいろいろ大変ということだが。 
 
 十勝7町村を巡回する移動展も、来月この音更町で最後となる。最後の展示に向けて準備を進めよう!
 
 
 

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2013年1月16日 (水)

氷まつりの準備が着々

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 今月25-27日は、第50回おびひろ氷まつりだ。緑ヶ丘公園では、大雪像の準備などが着々と進んでいるが、帯広百年記念館ではロビー展と合わせ、期間中に記念館前に小さな小さなスケート場を準備。「ゲロリ」と呼ばれる下駄スケートの試乗会を開催する。現在、担当学芸員を中心に準備が進行中。ゲロリを履いて試し滑りをしているところ。
 
 
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 昔の道具なので、足への装着もヒモを結んで行う。結び方についても資料を見ながら担当学芸員が解釈しつつ。何事も実験だ。
 
 
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 こちらは先日の昼間、スケート場を整備しているところ。昔の山スキーを履いて、スケート場の表面を調べている。
 
 
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 一方、公園内では陸上自衛隊を中心に大雪像などの準備が進められている。
 
 
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 市民雪像や氷の彫刻が並ぶ予定の並木道には、四角い雪の塊が置かれていた。
 
 
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 さあ、帯広の冬のメインイベント「氷まつり」までいよいよ1週間ほど。お楽しみに。
 

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2013年1月15日 (火)

帯広美術館の「ベル・エポックのポスター展」でラスムッセンのポスターについて考察

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 11月16日から開催されてきた道立帯広美術館での企画展「ベル・エポックのポスター展」が明日で終了する。同じ緑ヶ丘公園にありながら、動物園などに比べると日頃あまり接点の無い美術館だが、今回は自身の勉強と興味もあって、連続3回のミュージアムカレッジを受講した他、企画展示室へも都合5回ほど足を運ばせてもらった。今回は帯広美術館のコレクション展ということもあり、いつもよりやや地味な展覧会だったが、私としては興味を惹かれる作品があった。
 
 20世紀初頭ヨーロッパの鉄道ポスターと言えば、カッサンドルが有名だ。日本では沢木耕太郎さんの『深夜特急』の装丁に採用されていて有名なカッサンドル。今回も有名な「フランス北部鉄道」や「北極星号」が展示されている。私も好きなポスターなのだが、今回気になったのはこれではない。
 
 カッサンドルと並んで展示されていた、アーウェ・ラスムッセンの「D.S.B.デンマーク国有鉄道」のポスターから目が離れなくなったのである。
 
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 帯広美術館に所蔵されているものと同じラスムッセンの「D.S.B.デンマーク国有鉄道」
 ⒸAage Rasmussen (1913-1975)
 
 
 構図は明らかにカッサンドルを意識しているものなのだが、少し違うのは列車や線路に写実性が残っている点。キャプションにもこう書かれていた。
 
 ポスターの内容を印象づけるべく、厳選された要素、余白を生かした簡素な構成、骨太の文字など、この作品はカッサンドルが打ち出したスタイルから多大な影響を受けている。しかしながら、列車やレールのイラストは写実的な部分を残しており、表現上の冗長さをやや感じさせる。
 
 だが、私の感想は若干異なる。ポイントは線路の枕木の描き方だ。そこには明らかにレール締結装置とPC枕木の一種である短枕木が描き込まれている。全体のデザインは厳選された簡素なものなのに、線路を、それもレール締結装置と短枕木をわざわざ描き込んでいるのは、デザイン上の技術の問題ではなく、意図的なのではないか?と感じたのだ。
 
 もし、レール締結装置と短枕木を、むしろ強調して描いたのだとすれば。画面上部にある時速140kmを指す速度計と共に、このポスターはカッサンドルのような抽象的なスピード感を描いたものではなく、「線路改良による高速化」を具体的に訴えたポスターなのではないか?
 
 ポスターの描かれている年代は1937年である。そこで、ポスターの題材であるD.S.B.すなわちデンマーク国有鉄道の1937年前後に関する資料を集めようと、帯広市図書館のS司書さんにお願いして、いろいろと文献を集めてもらった。これはなかなか難しい要求なのだが、そこはさすがSさんで、いろいろと有益な資料を集めてくれた。ほんと帯広市図書館の司書さん達のレファレンス能力は高いと思う。これが皆さん正規職員ではなく嘱託職員だというのだから、市の人事行政にはほんと腹が立つ。
 
 また、WEBでも情報を収集していたところ、デンマークの鉄道博物館が、ラスムッセンの別のポスターを掲載していた。それは下記のようなものである。
 
 
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 ちなみに今、同館ではこのポスターに描かれている「赤い高速列車」の企画展を開催中らしい。数年前に復元され、動態保存されているのだそうだ。ⒸAage Rasmussen(1913-75) / ⒸThe Danish Railway Museum
  
 
 同じ1937年の作品。うーん、これは。帯広美術館の所蔵作品によく似ているが、まず速度計の値が違う。帯広美術館のポスターは140km/h。上のポスターは120km/hである。
 描かれている車両も異なる。上のポスターは明らかに1935年に登場し「赤い高速列車」と呼ばれたディーゼルカーで、恐らく車種はMB407-417のタイプではないかと思う。一方、帯広美術館所蔵のポスターの車種は、今のところはっきりしない。ブルドックスタイルと呼ばれる前頭部の形状や連結器の形から、似た車種はいくつか出てくるのだが、描かれている年代と合わないのである。これはもう少し調査が必要。
 
 そして最大の違いは線路である。上のポスターは普通の枕木ではないか。PCの短枕木にレール締結装置を描いた帯広美術館所蔵のポスターとは全く異なる。さらによく見ると、上のポスターはディーゼル急行とすれ違っている列車は明らかに煙りを残しており、蒸気機関車牽引列車と思われるが、帯広美術館所蔵のポスターには煙は無く、代わりにスピード感を表す直線が描かれている。
 
 そこで私の出した結論。この2枚のポスターは対比ポスターで、当時は2枚並べて掲出されていたのではないか?すなわち「デンマーク国鉄も最高時速120km/hの時代から140km/hの時代に入りました」というイメージポスターなのではないだろうか?
 
 まあ、単なる思いつきだが、ラスムッセンは意図的に線路を写実的に描いている、と言うのはあながち外れてはいないのでは?と思う。
 これも何かの縁。ひとつ帯広美術館の学芸員さんに、私の戯れ言を聞いてもらい、出来ればもう少し深くこの作品に関する考察を進めてみたいと思っている。
 

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2013年1月10日 (木)

公募書類を作りながら怒る

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 私は学芸員を志望してやってきたが、さすがに正規の学芸員への公募の対象には、もう入らなくなった。そこで、あまり気が進まないが最近は大学の公募にも出すようにしている。今日は休みだったので、一日かけて公募書類を作る。

 それにしても、大学公募で通例の「別刷またはコピーの提出」という制度は、そろそろ廃止できないだろうか?例えば、私の研究業績ならば、科学技術振興機構(JST)が運営するReadで公開している。 http://researchmap.jp/read0149873/ また、文献検索のCiNiiからも、一覧を拾う事ができる。事実確認をするだけならば、別刷本体を送らなくても良いような気がするのだが。
 
 というのも、この作業、かなり大変な上に、けっこうお金がかかる。今回の大学の場合、少し変わっていて、業績リストは印刷しなくて良いと言う。「ほう、変わってるな。でも簡単で良いな」と思ったら大間違い。業績評価資料とかいうエクセルの表に入力の上でCDかUSBに保存して提出。さらにその上、「研究業績中の原著論文の各々については、別刷またはコピーを、それ以外の業績については内容を証明する資料を、同資料の記載順に冊子2部(バインダー収納等)として提出してください」とある。
 さらに「現在、大学以外に所属している方については、研究業績(過去全ての期間)に関して、その内容を証明する資料(例えば招待講演の依頼状、研究費採択通知書等)で確認いたします」と・・・。
 
 そんなもん、学部生時代のものも含めたらえらい量になる。こんな私でも、大した論文は無いものの、書いたもの自体は通算すればそれなりの数になってしまう。既に別刷など底をついたものもあるし、その上「証明する資料」など、探しようのないものまであるのだ。論文はまだ良い方で、図録などの本はコピーったってどうしようもない。別の大学では図書は現物を提出(2部)させられた事もある。もう、あるものだけを提出するしか無い。指示無視だが仕方が無い。
 
 しかもそれを簡易書留で送れとある。さすがにパンパンのフラットファイル2冊に関連書類を入れると、普通の定形外封筒には入らない。大判の封筒に入れて送れという事だろうが、私などより業績の多い人なら完全に小包で送る必要が出てくる。私の場合は、郵便局の窓口職員氏ががんばって、500円のレターパックになんとか納める事ができた(その代わり、簡易書留との指示は完全に無視した)。

 そもそも別刷にしろ図録にしろ、著者だって買っているものである。ここまでして提出させて、あんたがた本当に読んでんのか?また選考終わった後、結局廃棄してしまっているのではないのか?そこのところがどうにもやるせない。いちいち現物を提出する必要が本当にあるのかなあ。
 
 とブツブツ言いながら、なんども諦めかけたがなんとか揃え、集配局のゆうゆう窓口で局員さんの協力によりなんとか発送。やれやれ、と一息も束の間。また次の公募書類出さなければ・・・。とにかく出さないと事態が進まないからなあ。
 

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2013年1月 8日 (火)

豊頃町へ移動展の設営に行く

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 移動展「博物館はなぜ標本を集めるのか」は、年明けから中札内村と豊頃町で2カ所同時並行で開催する。中札内村は既に昨年末に設営し、昨日から展示公開が始まった。今日は豊頃町へ展示設営に向かう。
 
 豊頃町は二宮尊徳の孫である二宮尊親を開拓の祖としている。会場となる豊頃町図書館の前には、お馴染みの薪を背負って勉強中な二宮金次郎像が建っていた。
 
 
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 図書館だけでなく郷土資料展示室やホールも併設されている、えるむ館。でかくて立派でびっくりした。
 
 
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 展示は図書館に入ってすぐのところに設置。スペースの関係で、かなり小規模なものになった。ただ、ガラスケースを1台お借りできたので、古い標本はケース(右端に少し写っている)へ展示。パネル4枚の両面を使って、解説と標本を展示した。
 
 
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 同じ日に同じ場所(本別町)で採集されたエゾエンゴサクの葉形変異を示したマスコレクションも展示。下見の時には気が付かなかったが、台が使えるそうなので、後日休みの日に採集道具などの展示を増やす予定。
 北大総合博物館からお借りした、'納豆はかせ'として知られる半澤旬が茂岩で採集した標本も公開。お近くの方はぜひ御覧ください。 
 
 

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2013年1月 7日 (月)

飛行機から富士山

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 珍しく年末に横浜の父方へ帰った。大晦日に帰り、今日、帯広へ戻ってきた。本当は汽車で帰りたかったが、都合により飛行機。帯広空港と羽田空港の往復という、何の変哲も無いつまらない行程だ、と思っていたが、たまに飛行機に乗るとなかなか楽しい事もある。今回は久しぶりに日中の窓側に座ったので、空からの景色を堪能できた。上は岩手県のリアス式海岸付近を飛行中。
 
 
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 羽田空港を飛び立って少しすると、富士山が見えた。富士山、今回は横浜の家からも毎日きれいに見る事ができた。こうして見ると本当に美しい山だ。
 
 
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 飛行機からだと、雪のある所から無い所にかけての変化も一望できる。そして、雪の山々を見ていると、地形というもの、その影響を受けた気象というものがよくわかって面白い。
 
 
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 やがて雲海の向こうから日高山脈が見えてくると十勝はもうすぐだ。帰ってきたなあと思う。鉄道や自動車だと坂やトンネルで越えてくる山々を、こうして上から見られるのも面白い。日中の窓側に乗れるなら、飛行機も楽しいものだ。
 
 

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