2018年5月19日 (土)

缶詰生活で魚を補う

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「持田さん、魚ですよ。もっと魚を摂って下さい。」
 

「魚、別に嫌いでは無いのですが、面倒なんですよね。」
 
「食べる事が面倒なんて、生きるのが面倒と言っているのと同じですよ。」
 
「食べるのは面倒ではありません。肉に比べて、魚を料理するのがどうも面倒で・・・。」
 
「標本つくる人が何を言ってるんですか。料理なんて解剖ですよ、解剖。解剖だと思って料理して下さい。」
 
「無茶でしょう。」
 
「無茶ですね。なら缶詰で良いんですよ。魚食べて下さい。」
 
後者採用。帰りに缶詰を買い込む。 
  
 
先日の健康診断(人間ドック)にて。
 
私よりまだずっと若いのに、何か哲学的な事を言う栄養士さんで面白かったが、帰りに買ったこの「釧路のいわし」缶詰もまた実に美味かった。
  
本当は「釧路のさんま」が美味いのだが、昨今の不良でイワシ缶ばかりだった。
 
しばらく缶詰生活を試みる。
   
 

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2018年4月25日 (水)

新吉野の駅名の由来は本当な何か?

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浦幌町の根室本線新吉野駅。かつては「下頃部」と言ったが、1942(昭和17)年に「新吉野」と改称した。
 
この「新吉野」という駅名。アイヌ語のシタコロベの語義が悪いということで変更になったと聞いたが、ではなぜ「新吉野」なのか?については、国鉄の駅名起源解説に「駅前に吉野桜が1本あったので吉野としようとしたところ、既に本州に吉野駅が存在したため『新』を冠して駅名とした」と書かれているのが出典としてよく引用される。
 
しかし、実は地元ではこの国鉄の由来説明に納得している人はほとんどおらず、そもそも駅前に吉野桜などというものがあった記憶が人々には無い。では、なぜ「吉野」なのか?はずっと不明のままだった。
 
 
ところが、昨日、吉野公民館で地区の古老と茶飲み話をしている席上、いきなり古老の一人が
 
「そもそも吉野なんて漢字が昔からついていたか?あのころは一面ヨシっ原だったから、みんなこの辺のことはヨシワラって呼んでいたのを覚えていねえか?」と言い出した。
 
すると驚いたことに、同席の古老たちから「そうだそうだ」「ヨシワラって言ってたっけなあ」という声が次々と上がる。そして、小学校の文集の名前が「ヨシハラの子」というタイトルになったと言う話も。
 
また、当初は「萩野」にしようという案が持ち上がったが、これが変更になって「吉野」になったという話も出た。いずれにしろ、昨日の話の流れから推察されたのは以下のとおり。
 
「下頃部」からの改称が検討される → 「萩野」案が出る → 同名があるので否定 → ヨシワラ案が出る → 漢字にすると「葦原」だが、時節柄、尊過ぎる名前だし、ヨミをとって「吉原」にすると、戦時中という時節柄、遊郭名に通じるのでいかがなものか → 「葦野」は画数が多すぎ → 「吉野」が良い → 同名駅があるから新を冠して「新吉野」にしよう
 
まったく根拠文献も無く、単なる雑談から出た推察だが、可能性はあるのではないか?今後さらに調べてみたい。
 
 

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2018年4月16日 (月)

明治41年の通常為替証書を買ってみた

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インターネットのオークションで、明治41年の通常為替の証書が出ていた。浦幌の地名が入っており、価格も500円と手頃だったので購入してみた。
 
正式名称は「通常為替金受領証書」。 現在も郵便局で取り扱っている普通為替で、当時は逓信省であった。
 
まず証書そのものの印刷について見てみる。下部に小さくある記載によれば、「明治四十年四月印刷局製」と記されている。
 
「印刷局」とは現在の国立印刷局である。かつては大蔵省印刷局といった。私は未だにその名称に馴染みがあるのだが、それもそのはず、大蔵省印刷局の歴史は古くて、明治11年まで遡る。
 
ただ、 明治40年の印刷局はちょっと面白い時期で、それまでの大蔵省印刷局と内閣官報局が合併し、「印刷局」は「○○省印刷局」ではなく、内閣所管の単なる「印刷局」であった。工場は東京の大手町にあったとされる事から、この証書も大手町で刷ったものなのだろう。この体制が関東大震災後まで続いた。
 
 
次に、為替でお金を払い込んだ年月日と場所である。消印には「明治四十一年八月三日 十勝浦幌」とあり、本文にも「十勝國浦幌郵便局長」の印が押されている。現在の浦幌郵便局であろう。
 
明治41年の浦幌はまだ「十勝國生剛村」だった時代で、根室本線が現在の富良野線経由で旭川〜釧路間を全通した直後。当時の浦幌郵便局の場所がよくわからないが、まだ生剛村役場のあった下浦幌地区にあったかもしれないし、鉄道に併せて浦幌駅前通りに移転した直後だったかもしれない。このあたりはしっかりと史料を確認する必要がある。
 
 
一方、送金したお金を受け取る郵便局が指定されている。いわゆる「払い出し郵便局」で、証書には「下総國境局」とある。現在の「茨城境郵便局」がそれに該当する。
 
茨城境郵便局の歴史は古く、なんと明治5年、日本の郵便制度発足直後に「境郵便取扱所」として開設されている。明治36年に「境郵便電信局」から「境郵便局」と名称が変更されており、本資料はその時代のものである。場所は茨城県猿島郡境町で、境町は当時もいまも猿島郡境町で変わらない。
 
 
この境町が属する猿島郡は、茨城県の西端にあたる。東北本線の古河の辺りで、関東平野の中心地である。ここまで来ると茨城県なのかどこなのか、よくわからないのが正直なところなのだが、だからこその「境」なのであった。
 
 
この境町の東には、筑波地区がある。現在は合併して「つくば市」になっているが、かつては細かく分かれていて、明治41年当時は筑波郡上郷村(その後の上郷町→豊里町)があった。
 
この筑波郡上郷村は、浦幌町の下浦幌地区に入植して大農場を築いた土田謙吉の出身地、いわゆる入植元である。土田は明治28年に茨城県から15戸60名を浦幌へ移住させたと言われている。明治年間に浦幌と上郷村との間を往復した書簡が残っており、移住後も出身県の人々とのやりとりが続いた事であろう。
 
そう考えると、この証書で浦幌から境へお金を送った人物も、土田農場に関係した人なのかもしれない。名前も無いし、これらの状況から推察しただけの全く確証の無い話ではあるが、小さな紙片もそうした事を考えながら眺めていると、それだけで何か愛おしさのようなものを感じてくるから不思議なものである。
 
 

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